2012年12月1日土曜日

「資産」とは?



突然ですが、

「資産とは何ですか?」

と問われたら、

個人だったら、土地・家、車、現金、株式などの証券、などと答える方が多いでしょう。

では「会社にとっての資産は何ですか?」

と問われたらどうでしょう。

現金や債権、土地や建物などの固定資産、などと答えるのが一般的ではないでしょうか。


先月、「学びの鬼」であり(私が勝手にそう言っているだけです)、「学びの師範」(私が勝手にそう思っているだけです)でもある会計士・田中靖浩先生と、最近、『「たった1人」を確実に振り向かせると、100万人に届く。』という本を上梓された阪本啓一さんのコラボ講演会(田中塾)へ参加してて、この問いに対する大きな気づきと自分の思考との一致を見ました。



テーマは「会計とマーケティング」。

アカデミックな観点からだったり、また一般企業の組織的な観点からすると、あまり交わるイメージのしない分野ですが、私自身は、これまでの仕事歴でどちらも経験したことがあり、またキャリアの最初にマーケティング・営業的な仕事をして、その後に財務経理の道へ進んだので、「現場=自社と顧客をつなぐ場」で何が起きているのかわからないと、バックオフィスでただ数字だけ眺めていても全く実感がわかないし、気持ちが悪いので、できる限り現場の人とかかわるようにして「現実」と「数字」の接点を見つけようとしてきました。

したがって、この両者は全く別物といった思いもなく、それ以上に興味のもてるコラボという関心の方が大きく、結果的にとても「学び」と「気づき」の多い、密度の濃い時間を過ごすことができて楽しかったです。

会計の専門家である田中先生の講義とマーケティング&ブランディングが専門の阪本さんより、それぞれの分野から、マクロ的な視点(田中先生)、ミクロ的な視点(坂本さん)からの新時代を生きるための考え方や視点をお話しいただきました。

お二方のお話を聴いた感想としての接点をあげれば、

現代の社会構造の劇的な変化(「第4次産業革命」 by 阪本さん)によって、会計しかり、マーケティングしかり、既存の枠組みに沿ったものの考え方、やり方が全く通用しなくなっており、既成概念を否定して実利的な視点にたち、本質を追求することを第一義的にすべき、ということでしょうか。

要は、根本から考え方をあらため、いま及びこれからを生きるうえでのリアリティのある活用を考えなければならないということだと理解しています。

田中先生による講演、『新時代の「会計」を学ぶ』の中で、先生は、戦後以降の経済成長率の推移・成長の各ステージをみながら、いまはこれまでの会計・簿記が全く機能しなくなっているし、むしろリアリティを追求する上での阻害要因になっているということをお話しされました。

その最たるものが、既存の会計制度によって作成された「決算書」です。

決算書がその機能を果たせなくなっているというお話でしたが、中でも、本記事のテーマでもある「資産」。

「資産とは過去の取引または事象の結果、特定の企業が支配する経済的利益であって、将来享受できる可能性の高いもの」とされています(米国会計基準による定義。古いので最近かわっているかもしれませんが・・・)。

わかりにくいですが、要は、将来にその会社に利益を生み出すための源泉になるもの、ということですが、それも様々な基準を満たしたモノだけが資産として計上できるのです。

これまでの常識的な観点からすると、冒頭に記したような、現金や売掛金などの債権、固定資産などが一般的にはあげられるでしょう。

ですが、前出の田中先生も言っていましたが、決算書における「資産」には見落とされている大きなものがあります。

それは「人」です。

なぜなら、会社を動かしているのは、紛れもなく「人」だからです。

どんなに価値の高い資産をもっていたり、キャッシュをたくさんもっていようが、それを生み出すのも、壊すのも「人」です。
人件費という名の単なるコストはありません。

その「人」という資産が決算書には表示されていません。

たしかに、決算書を見れば、ある基準によって算出された業績、つまりその会社が(直近で)どういう業績を残しているか、及びある一時点の所有物や債権・債務等を垣間見ることができます。ですが、投資家にとっては(ある目的のための)会社分析資料にはなりえても、その会社の本当の実態は読み取れないと思います。

それは、会社には実態はなく(法人格という権利・義務主体でしかありません)、「人」の集合こそが会社の実態であり、その会社にどういう経営者や社員がいて、そのひとたちがどんな志をもって働いているかは決算書からは読み取ることも感じることもできません。

一時期、一世を風靡する程の成功を収めたもののあっという間に消えていってしまう会社もありますが、これなどはまさに会社を運営するのは「人」であり、その「人」のおこないによって、成功もすれば失敗もするということです。

それなのに、なぜ財務諸表には「人」が資産として表示されないのでしょうか?

「そんなことあたりまえじゃないか!」
「じゃあ、社員を数値化して(価額にして)財務諸表に載せる方法でもあるのか?そんな基準作りをすること自体がナンセンスだし、企業毎の自由にしたら、それこそある一定の基準に従って作成することで比較可能となる財務諸表の根底を崩して、それを利用する人(特に投資家たちを)混乱させるだけじゃないのか!」

と、言われてしまいそうです。

財務経理をやってきた自分も、米国基準やら日本基準やら国際基準やらの「会計制度」をベースとし、前例に従って、モノゴトを進めてきましたし、目的としての財務諸表の在り方を否定するものではありません。

私は、マネジメントの道へ進むために、財務経理をいわば自分のコアスキルとすべく、この分野に携わってきました。その勉強のために、米国公認会計士資格も取得しました。

資格取得と前後して、財務経理の道へキャリア転身し、実務として財務会計や管理会計、ファイナンスに携わってきましたが、皮肉なことに、やればやるほど何ともいえないモヤモヤした気持ちが強くなっていきました。

その理由は、ズバリ、実利的でない、実際の経営に役立っていると感じられないからだと思います。

例えば財務会計においては、外部の投資家に会社の実情を開示するという大義名分がありますし、かかわっているときにはその責任の大きさも感じていました。ですが、複雑化・多様化するビジネスや取引実態を無理やりに数値化しようとするため、制度自体もどんどん複雑化していき、何のためにいまの財務会計があるのか疑問に抱くようになると同時に、この変化の激しい時代、実態経済や個々のビジネスの形態が多様化している中で、ある一定の枠組みに無理やりまとめようとすること自体が無理なのではないかと思うようになりました。

繰り返しますが、だからといって財務諸表の役割そのものを否定するものではありませんし、必要なものであることも理解しています。

これからは、利用者にとってはその使い方であったり、作成側にとっては、そこにかけるコストや考え方も見直していくことが望まれると私は思います。


ちょっと話が横道にそれました。

資産に話を戻しますが、資産とは将来の収益を生み出すもとになるもの。

そうであるなら、(大企業だろうが中小企業だろうが)「人」の力やつながりこそが将来利益の源泉であるといえないでしょうか。


いまあらためて「あなたにとっての資産は何ですか?」と問われれば、私は迷わず、

「自分がこれまで学んできた全てのことであり、また友人、知人とのつながりであり、そして家族です」

と答えます。

「仕事の友人こそ生来収益のもと!」

「100万円貯めるより、100万円一緒に稼ぐ仕事の親友を作れ!」(田中先生)

会社に頼るのではなく、何があっても生きていけるような自分の強みをもつ。その上で、一緒にいつでも仕事をできるような「仕事の友人」をたくさんもつことで、自ら生きる道を切り開く。この言葉からはそんな思いを感じとりましたし、私自身もそういう思いでこれまで生きてきました。


形から入る(会計でいえばその基礎である簿記から入る)前に、まずは本質をつかむこと。

リアリティ、本質を追求していけば、会計を例にとっても、いかに時代遅れになっているかがわかります。


「資産は人なり」

当たり前のようで、本質的な事実。

そして、この「人」という究極の資産を収益に結び付ける方法を本気で追求する、今の時代を生き抜くにはこれしかないと思います。いや、「いつの時代も」ですね。

それには、画一的な方法などないでしょう。

それぞれの個人、会社が目指すビジョンや使命に応じて、やり方は千差万別だと思います。

ただし、最終的には、そこに集う人が同じ志をもち、同じ方向を向いていなければ、その声はそれぞれの対象(顧客)には届かないとも思います。


“お墨付き”の必要な財務諸表に「人」を資産として表示すべきかどうかについては、正直どうでもいいです(笑)

ただ、外部の誰かからの“お墨付き”などなくても、いつか本当に自分の会社の「人財」を資産に表示してみたいですね。

自分の会社・ビジネスに共感をもってもらうために、「うちの会社にはこんな人たちが集っているんですよ」、ということを会社の価値として示すことができれば素晴らしいですね!


2012年12月1日





2012年10月27日土曜日

The Sense of Wonder



The Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)

もうかなり前のことですが、ある英語雑誌を読んでいてこの言葉に出会ったとき、なぜだかわかりませんが、とてもいい響きと暖かく優しい感覚に包まれました。

日本語では、

「感動の気持ち」
「不思議さに驚嘆する感性」

などと訳されますが、自分にとって、子供のころに初めて見たり、聞いたり、体験したりして感動していた記憶を瞬間的に蘇らせるような言葉でした。

最近になって、ある本を読んでいるときに再びこの言葉に遭遇したのですが、その際にこの言葉にまつわることをいろいろ調べたいと思い、ネット検索をしていたところ、まさにこの言葉そのままの"The Sense of Wonder"という本のことを知りました。

アメリカのベストセラー作家であり海洋生物学者でもあったレイチェル・カーソンという女性が書いた本ですが、この作品が世に出たのは1956年という今から50年以上も前のことで、正確には本として出版されたのではなく、ある雑誌に掲載された彼女のいわば短編作品とのことです。

お恥ずかしながら、私は彼女のことを知らなかったのですが、レイチェル・カーソンは、ベストセラー「沈黙の春」(Silent Spring)の作者として、当時の社会(まだ環境破壊への認知が低い時代)において環境汚染などの問題提起をして大きな社会的注目を浴びていたそうです。

レイェルは、地球の素晴らしさは生命の輝きのなかにあると信じていて、地球はあらゆる生命が織りなすネットで覆われている、その地球の美しさを感ずるのも、探求するのも、守るのも、そして破壊するのも人間なのです(「訳者あとがき」より)、といっています。

当時、ガンにおかされていたレイチェルは、このエッセーをふくらませて単行本として出版することを考えていたようですが、残念ながら夢かなわず、1964年にわずか56歳の生涯を閉じてしまったのでした。

そして、彼女の死後に友人たちが彼女の夢を果たすべく、原稿と写真を整えて、出版したのがこの本です。

The Sense of Wonderの日本語版を読んで強く共感し、続けて英語版の原書も購入して読んだところ、そこには更に美しい写真によるマクロ、ミクロの自然の世界が広がっており、瞬く間に魅了されました。

以下、私が特に印象に残った文章の抜粋です。

「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。」

"A child's world is fresh and new and beautiful, full of wonder and excitement. It is our misfortune that for most of us that clear-eyed vision, that true instinct for what is beautiful and awe-inspiring, is dimmed and even lost before we reach adulthood.  If I had influence with the good fairy who is supposed to preside over the christening of all children I should ask that her gift to each child in the world be a sense of wonder so indestructible that it would last throughout life, as an unfailing antidote against the boredom and disenchantment of later years, the sterile preoccupation with things that are artificial, the alienation from the sources of our strength."


簡易な英語文体で書かれており、英語でも声に出して読みたい本です。


読了後、感化されやすい私は、先月ちょうど次女が6歳の誕生日を迎える直前だったこともあり、大きな虫眼鏡と持ち運び可能な顕微鏡を誕生日プレゼントとして買い与え、自然がまだ残る近所へ出かけて植物や虫など、ミクロな世界を一緒に見まくって、久しぶりに童心に帰りました。

蟻の巣をほじくりかえして、蟻の「住み家」を2人で長々と眺めて、数えきれないほどの蟻たちが統制されて動く様をじ~っと眺めました(蟻さん、家を壊してゴメンなさい)。自分も子供の頃に同じことをして蟻の生態をマジマジとみながらボーっとしていたことを思い出しました(ただただ不思議な世界に見入っていただけだと思いますが)。

また、名も知らぬ小さな虫を見たり、植物(の一部)を持ち帰って、家で娘と一緒に「おぉ~、キレイ!」とか「これ不思議なカッコウしてる〜」などと言い合いながら顕微鏡で眺め合いました。

この世の中には私たち人間が知らないこと、見たことがないものなどはまだまだいくらでもあるでしょう。それは何も文字通り全く目にしたことのない動植物などだけでなく、実は普段から視野や耳に入ってきている(けれど全く気づいていない)ものも数多くあることと思います。

この本を読んで以来、私は特に近所の自然、山の景色や植物を意識してみるようになりましたが、するとこれまでも視界には入っていたはずなのに、気づいていなかった素晴らしい景色がたくさんあることに気づくようになりました(物理的な自然にいつでも触れられるというのは、緑豊かな自然と海に囲まれた“田舎”に住んでいる特権でもありますね)。

毎朝、出勤の際に駅へ向かう道端にある木々や植物を意識して見ていると、その移り変わりがよくわかるし、これまで気づかなかった見知らぬ植物に思わず目を奪われることもあります。

レイチェル自身は、この美しい地球上に残る自然との共生を望んでいたと思いますし、彼女からは、その地球に生きる人間としての"Sense of Wonder"を大切にしたいという思いが切実に伝わってきました。

一方で、Sense of Wonderは、何も物理的な自然に対する感覚に限ったことではないと思います。

人間も自然の一部であり、その人間が営む生活において、知らないことを知り、また素晴らしい人間の営みに素直に感動することもSense of Wonderであると私は思います。

新しいことを学ぶ、気づく、人と知り合う。忘れていた大切なことに気づくことだってSense of Wonderではないでしょうか。

ただし、対象が何であれ、このSense of Wonderの気持ちをもてるかどうかはただ一つ、自分の人生に好奇心があるかどうかだと思います。

それも謙虚さに基づいた好奇心。

もし何か一発当ててやろうとか獲物を狙うといった私利私欲や傲慢さに基づいた好奇心だったら、モノの見方、視野が狭くなって、結局は本当に見るべきものを見過ごしてしまうのではないでしょうか。

それよりも、(一見矛盾するように思えるかもしれませんが)何も「求めない」心の在り様で、それでも意識を外に向けて「好奇心」の目で周囲をみていると、毎日見ている景色が違って見えてくるから不思議です。キョロキョロとせわしなく探すのではなく、ただ意識を外に向けるようなイメージといえばいいのでしょうか。

普段の何気ない生活、仕事の場、家庭の場、どんな場所でも何気なく過ごしていると見過ごしてしまうことでも、意識の持ちようを変えるだけで眺める景色も変われば、平凡な生活模様からも新たな気づきがえられます。

私は毎日仕事にいきますが、職場の風景や仲間も、ただ日々の生活の中で当たり前の風景・姿として流すことなく、ある視点・意識をもって眺めたり接していると、新しいことに気づいたりするので面白いです。

人間は、言葉を話すことができます。行動で思いを表現することができます。

そのもとになっているのは、人間としての感情。

人間は感情的な生き物ですから、仕事場に感情を持ち込まないなんてことはできません(と私は思います)。

ですので、人間観察をしていると、そして日々の何気ない会話の中からもその人の情動が伝わってきます。

旧時代を懐かしむようなことはあまり言いたくはないのですが、私の個人的な体験として、昔は(15年以上前ということにしておきます・・・)、私の職場の仲間には、感情を素直に出す人が多かったので、ある意味でとても人間的な付き合いができました。

例えば、失恋して辛い気持ちで仕事をしている人や、嬉しいことがあるとその人のハッピーな感情が職場にまで充満しているのを感じることもありました。一方で、最近は、全くの無表情で(各自が)決められた仕事をただ黙々とこなすだけで会話もなく、無表情・無感情な人が多くなったように思います。

いや、本当はもっと感情表現したいのに、無感情・無表情であることを装っているようにも見えます(職場の雰囲気やリーダーの言動がそれを無意識のうちに引き起こしているのかもしれません)。

これは、もちろん、あくまで私の主観的な意見ですし、ここで(組織行動や成果の面から)良い悪いを論じたいわけではありません。

感情的であることを認めて(嬉しいことでも悲しいことでも)それをポジティブに表現する人には、私はとても人間的、つまり自然な魅力を感じてしまいます。

仕事の業務上の話以外にはなかなか口を開かない人がいたとき、どうしたらこの人の感情に触れることができるだろうかと思案していたこともあります。入り込もうとしすぎて逆に拒絶されたという失敗もありましたし、周囲から煙たがられている人と率直な話をできたときに、その見た目や印象とのギャップに驚き、またそこに触れることができた喜びを感じたこともありました。

私にとっては、これもSense of Wonderであり、それはやはり人間も自然の一部だからなんだと思います。


私は、生活の大半の時間をパソコンなど人工物に囲まれて過ごしています。

そして、そういう生活を捨てさることもできません。

だからこそ、自然との触れ合いを、レイチェルがいうところの「解毒剤」として自分の生活に有効に作用させ続けていきたいと素直に思います。

人生は旅路。

いくつになっても、Sense of Wonderの気持ちを忘れずに歩みたい。

2012年10月27日