2013年4月29日月曜日

異質・多様性の受容


以前、宋文洲さんが、『「価値観」の罠』と題したブログでこんなことを述べていました。

『「あの人と価値観が違うから」、「〇〇国と価値観を共有できるから」・・・ビジネスマンや政治家がよく口にするこの言葉に私は反対です。・・・

現実、夫婦間でさえ価値観はよく異なります。世界では民族が異なり、文化背景の異なる夫婦が普通にたくさんいます。異なる宗教同士の結婚も珍しくありません。価値観の違う夫婦はどちらかといえばむしろ幸せな場合が多いのです。相手、とくに女性を尊重することになれているからです。』

という前文の上で、

『同質社会の中で生きているうちに自分と他人の明確な相違がなくなっている』

とし、

『同質を求め、多様性を嫌うことの本質はこの「自分タチの価値観に慣れている」ことにあるのです。価値観を言う人ほど、自分ダケの価値観を持っていないのです。』

と締めくくっています。

生来の人見知りで臆病な性格を思うと、「同質」を好み、「異質」を受け入れることが苦手であったはずの自分が、大人になるにつれて現実には「異質」なことへ興味を抱き、また異文化・異質体験を通じて自己との葛藤に向き合ってきたことを思い返すと、「価値観」に関する宋さんのブログが自分の内側にググッと入り込んできました。

ただし、ここでは、自分だけの価値観をもつべきかどうか、といったことについて論じるつもりはありません。

価値観の異なる人、異文化、国など、「異質」なことにどう向き合っていくべきか、ということに思いを馳せてみました。


人は誰でも生まれながらにして「個性」や「色」をもっています。

誰ひとりとして、その人と全く同じ顔、身体、心、人格をもった他人はいないのですから、この世に生を授かった時点で「個性」は備わっているはずです。

ただし、当然ながら、生後の人生は、その人が生まれ育った環境、すなわち、家族、親戚、地域、国、文化、時代といった内的・外的環境に影響を受けることになります。

それによって「個性」も変化を遂げていくことになるでしょう。

身内であろうと全くの他人であろうと、人はそもそも「個性的」であり、「十人十色」であることを認識することは大切なことだと思います。

「個性」を無理やり生み出そうと躍起になる前に、そもそも自分は他者とは異なる、生まれ備わった「個性」があるのだということを認識すること。そこから、いろいろな経験や学びを通じて自己研鑽を重ねることによって、更に「個性」に磨きがかかるのだと思います。

一方で、人生を社会という枠組みの中からとらえてみると、自分とは異なる他者とどうやって生きていくか、つまり「共生」する力が必要とされます。

それは、あらゆる次元の組織、家庭や学校、職場、国など、大小あらゆる組織の中での生きる力ということになるのでしょう。

私は、その力を単なるスキルとはとらえていませんし、この世に生を授かり、その人に与えられた人生を生きていくためのいわば人間力としてとらえたいと考えています。

言い換えると、「個性」を社会の中で意義あるものにするには、確かな共生力が必要になるのだと思います。

共生力とは、多種多様な人生観をもつ人々が暮らすこの世において、秩序のある社会生活を維持していく力であり、一方で「個性」のベースとなるものであり、決して「個」とは切り離して考えることはできないと思います。

その人が生まれ育った国や文化、教育といったものによって、そこに暮らす人々のおおよその人間性の「枠」は固定化されてきますし、否応にも類似性は生じます。人間が社会的動物である以上、社会的ルールを守りながら生きる能力を養うことは必須ですし、結果として、「個性」のベースが均質化することは避けられないでしょう。

それを踏まえて「いま」という時代を眺めてみると、現代は、直接的であれ間接的であれ国という枠組みを超越した異文化コミュニケーションが容易にできる時代であり、かつてないほどに人々は権力による抑圧から解放された生活の自由度を享受している時代でもあります。

※独裁的国家権力を握る一部の人たちによって、今でも自由な生活、基本的な人権どころか、人間として生きる最低限の環境すら与えられず苦しんでいる人々がいることを無視してはならないのはもちろんです。

情報の伝達、コミュニケーションにおける国境がほぼなくなっている現代において、一見すると「同質性」「均質化」の拡がりが懸念されそうに思えますが、「同質性」に埋没することを避けようとする人間としての本能が働いているのか、「個性」や「異質」であることへの欲求も逆に強くなっているようにも感じます。

モノや生活スタイルという観点からは同質化しつつある世界において、その主役である人間は、「個性的」であること、自らの存在義を主張しようとしているかのようです。

振れ過ぎた振り子が元に戻ろうとするように、何事においても「行き過ぎ」はそれと同じ強さで反対側へ振り戻されることになるのではないでしょうか。

私が大学を出て就職した1990年代は、グローバル化されていく市場を、資金力の大きな企業が席巻し、M&Aなどによって企業の合従連衡が進みました。いわば、企業の巨大化が推進されていった時代でした。

ちなみに、私が新卒で入手した日系の会社も外資の波に飲み込まれ、M&Aを繰り返していました。

大きくとらえれば、いわば「均質化」への流れ。

そして、いまはあらゆるモノやサービスの市場も飽和しつつあり、変化のスピードがますます早まっていくこの時代において、「均質化」とは逆方向へと力が流れているようであり、存在感を増す「個性」の欲求に応えることができない大企業は、今度は迷路にはまっているかのようです。

規模の経済が有効な市場では、2~3の大企業だけが生き残り、多種多様な「個性」を満たす市場では中小企業がその役割を果たすべく機能しはじめているのではないでしょうか。

いずれにしても、時代は変わり、大きいもの・ことが良しとされるときがまたやってくるのかもしれません。

少し話がそれました。

いずれにしても、いまは個人の力が幅を利かせる時代であるのだと思いますし、この“グローバル社会”というとても抽象的な世界で生きる上では、具現的な個人力がこそが必要なのだろうと私は認識しています。

ここでいう私がいう個人力とは、「個性」に基づいた人生観であり、そしてその人生観に基づいた「受容力」を指しています。

言い換えると、「マインドフルネス」(人材育成分野で多くのことを学ばせていただいている酒井穣さんの言葉を借りれば、「自分の人生を「思い込み」に任せてしまうことなく、自分の人生に参加し、しっかりと生きるためのスキル」のこと)に生き、その結果を受容していくことだと思います。

私が考える「個性」とは、「自分らしく生きること」であり、「自分らしく生きる」とは、決して表面的に人と異なる生き方をすることではありませんし、無理やり異なるように見せる生き方でもありません。

また、反社会的に生きることが「個性」であるわけでもありません。

冒頭で述べた通り、人間にはそれぞれに「個性」があるのですから、その人が受け入れられる生き方であれば、それは「自分らしく生きている」ことなのかもしれません。

ですが、私個人としては、一歩踏み込んで、自分の人生に参加して「問い」を持ち続けながら生きたいですし、それがあってこその「受容力」だと思います。

そして、個人の「受容力」が、異質な他者を受け入れる「受容力」につながるのではないでしょうか。

自分を受け入れられない人が他人を受け入れられる優しさをもてるでしょうか。

自分を受け入れられない人、言い換えると、自分を許せない人は他人も許せないのではないでしょうか。

自分を受け入れるとは、現状をただ我慢するとか、自分勝手になるということではもちろんありませんよね。客観的に視た自分を認めるということだと思います。

自分で自分を客観的に視ることは難しいですが、個人的には自分を良く知る身近な人からフィードバックを受けることはいい気づきをえられます。そして、それを冷静に受け止めることができるかどうかがいい尺度になります。

異質なことが受け入れられない、理解できなくても当たり前だと思いませんか?

全てを肯定的に受け入れようとする、理解しようとするから苦しくなるのだと思います。

私はカトリック信者ですが、キリスト教の歴史を全て理解して、受け入れられているわけではありません。正直なところ、理解できないこともたくさんあります。

それでも信仰心は揺らぎません。

また、これまで、仕事などを通じて、様々な国の人たちと接してきましたが、「自分が正しい」とか「優位性」を感じた視点に立てばたつほど、また、自分とは全く異なる文化で育った相手を無理やり(自らの論理で)理解しようとすればするほど、結局はその違いに対する苛立ちや不満につながっていいくだけでした。

ですが、「なぜ?」から入らずに、「なるほど」から入ると、そこからポジティブな「受容」が始まります。対象によっては、それが自分にとっての深い興味や研究対象になっていくこともあります。

受け入れようとする、理解しようとするのではなく、まずは(自分とは)異質であること自体を受け止めること。自分とは異なることがあることをポジティブに受け止めてみる。

知らないことや異質と感じられることに出会えたことを喜ぶ。

そういう好奇心をもてるかどうか。

私も数多くの「異質」経験をしてきましたが、行き着いたところは、こんなシンプルなことでした。

「個性」だって、生まれ持った資質や性格を受け入れてこそ、更に磨かれるものです。

「個性」を否定してしまったら、その先に自分らしい人生はなく、結果、自分も他人も受け入れられない、ただの不平家として一生過ごすことになりかねません。

個性を育てるのも異質性を受け止める能力も、その人の受容力と好奇心の度合に応じているように思います。


2013年4月29日