学無止境 ~人生は旅路~
2013年4月29日月曜日
異質・多様性の受容
以前、宋文洲さんが、『「価値観」の罠』と題したブログでこんなことを述べていました。
『「あの人と価値観が違うから」、「〇〇国と価値観を共有できるから」・・・ビジネスマンや政治家がよく口にするこの言葉に私は反対です。・・・
現実、夫婦間でさえ価値観はよく異なります。世界では民族が異なり、文化背景の異なる夫婦が普通にたくさんいます。異なる宗教同士の結婚も珍しくありません。価値観の違う夫婦はどちらかといえばむしろ幸せな場合が多いのです。相手、とくに女性を尊重することになれているからです。』
という前文の上で、
『同質社会の中で生きているうちに自分と他人の明確な相違がなくなっている』
とし、
『同質を求め、多様性を嫌うことの本質はこの「自分タチの価値観に慣れている」ことにあるのです。価値観を言う人ほど、自分ダケの価値観を持っていないのです。』
と締めくくっています。
生来の人見知りで臆病な性格を思うと、「同質」を好み、「異質」を受け入れることが苦手であったはずの自分が、大人になるにつれて現実には「異質」なことへ興味を抱き、また異文化・異質体験を通じて自己との葛藤に向き合ってきたことを思い返すと、「価値観」に関する宋さんのブログが自分の内側にググッと入り込んできました。
ただし、ここでは、自分だけの価値観をもつべきかどうか、といったことについて論じるつもりはありません。
価値観の異なる人、異文化、国など、「異質」なことにどう向き合っていくべきか、ということに思いを馳せてみました。
人は誰でも生まれながらにして「個性」や「色」をもっています。
誰ひとりとして、その人と全く同じ顔、身体、心、人格をもった他人はいないのですから、この世に生を授かった時点で「個性」は備わっているはずです。
ただし、当然ながら、生後の人生は、その人が生まれ育った環境、すなわち、家族、親戚、地域、国、文化、時代といった内的・外的環境に影響を受けることになります。
それによって「個性」も変化を遂げていくことになるでしょう。
身内であろうと全くの他人であろうと、人はそもそも「個性的」であり、「十人十色」であることを認識することは大切なことだと思います。
「個性」を無理やり生み出そうと躍起になる前に、そもそも自分は他者とは異なる、生まれ備わった「個性」があるのだということを認識すること。そこから、いろいろな経験や学びを通じて自己研鑽を重ねることによって、更に「個性」に磨きがかかるのだと思います。
一方で、人生を社会という枠組みの中からとらえてみると、自分とは異なる他者とどうやって生きていくか、つまり「共生」する力が必要とされます。
それは、あらゆる次元の組織、家庭や学校、職場、国など、大小あらゆる組織の中での生きる力ということになるのでしょう。
私は、その力を単なるスキルとはとらえていませんし、この世に生を授かり、その人に与えられた人生を生きていくためのいわば人間力としてとらえたいと考えています。
言い換えると、「個性」を社会の中で意義あるものにするには、確かな共生力が必要になるのだと思います。
共生力とは、多種多様な人生観をもつ人々が暮らすこの世において、秩序のある社会生活を維持していく力であり、一方で「個性」のベースとなるものであり、決して「個」とは切り離して考えることはできないと思います。
その人が生まれ育った国や文化、教育といったものによって、そこに暮らす人々のおおよその人間性の「枠」は固定化されてきますし、否応にも類似性は生じます。人間が社会的動物である以上、社会的ルールを守りながら生きる能力を養うことは必須ですし、結果として、「個性」のベースが均質化することは避けられないでしょう。
それを踏まえて「いま」という時代を眺めてみると、現代は、直接的であれ間接的であれ国という枠組みを超越した異文化コミュニケーションが容易にできる時代であり、かつてないほどに人々は権力による抑圧から解放された生活の自由度を享受している時代でもあります。
※独裁的国家権力を握る一部の人たちによって、今でも自由な生活、基本的な人権どころか、人間として生きる最低限の環境すら与えられず苦しんでいる人々がいることを無視してはならないのはもちろんです。
情報の伝達、コミュニケーションにおける国境がほぼなくなっている現代において、一見すると「同質性」「均質化」の拡がりが懸念されそうに思えますが、「同質性」に埋没することを避けようとする人間としての本能が働いているのか、「個性」や「異質」であることへの欲求も逆に強くなっているようにも感じます。
モノや生活スタイルという観点からは同質化しつつある世界において、その主役である人間は、「個性的」であること、自らの存在義を主張しようとしているかのようです。
振れ過ぎた振り子が元に戻ろうとするように、何事においても「行き過ぎ」はそれと同じ強さで反対側へ振り戻されることになるのではないでしょうか。
私が大学を出て就職した1990年代は、グローバル化されていく市場を、資金力の大きな企業が席巻し、M&Aなどによって企業の合従連衡が進みました。いわば、企業の巨大化が推進されていった時代でした。
ちなみに、私が新卒で入手した日系の会社も外資の波に飲み込まれ、M&Aを繰り返していました。
大きくとらえれば、いわば「均質化」への流れ。
そして、いまはあらゆるモノやサービスの市場も飽和しつつあり、変化のスピードがますます早まっていくこの時代において、「均質化」とは逆方向へと力が流れているようであり、存在感を増す「個性」の欲求に応えることができない大企業は、今度は迷路にはまっているかのようです。
規模の経済が有効な市場では、2~3の大企業だけが生き残り、多種多様な「個性」を満たす市場では中小企業がその役割を果たすべく機能しはじめているのではないでしょうか。
いずれにしても、時代は変わり、大きいもの・ことが良しとされるときがまたやってくるのかもしれません。
少し話がそれました。
いずれにしても、いまは個人の力が幅を利かせる時代であるのだと思いますし、この“グローバル社会”というとても抽象的な世界で生きる上では、具現的な個人力がこそが必要なのだろうと私は認識しています。
ここでいう私がいう個人力とは、「個性」に基づいた人生観であり、そしてその人生観に基づいた「受容力」を指しています。
言い換えると、「マインドフルネス」(人材育成分野で多くのことを学ばせていただいている酒井穣さんの言葉を借りれば、「自分の人生を「思い込み」に任せてしまうことなく、自分の人生に参加し、しっかりと生きるためのスキル」のこと)に生き、その結果を受容していくことだと思います。
私が考える「個性」とは、「自分らしく生きること」であり、「自分らしく生きる」とは、決して表面的に人と異なる生き方をすることではありませんし、無理やり異なるように見せる生き方でもありません。
また、反社会的に生きることが「個性」であるわけでもありません。
冒頭で述べた通り、人間にはそれぞれに「個性」があるのですから、その人が受け入れられる生き方であれば、それは「自分らしく生きている」ことなのかもしれません。
ですが、私個人としては、一歩踏み込んで、自分の人生に参加して「問い」を持ち続けながら生きたいですし、それがあってこその「受容力」だと思います。
そして、個人の「受容力」が、異質な他者を受け入れる「受容力」につながるのではないでしょうか。
自分を受け入れられない人が他人を受け入れられる優しさをもてるでしょうか。
自分を受け入れられない人、言い換えると、自分を許せない人は他人も許せないのではないでしょうか。
自分を受け入れるとは、現状をただ我慢するとか、自分勝手になるということではもちろんありませんよね。客観的に視た自分を認めるということだと思います。
自分で自分を客観的に視ることは難しいですが、個人的には自分を良く知る身近な人からフィードバックを受けることはいい気づきをえられます。そして、それを冷静に受け止めることができるかどうかがいい尺度になります。
異質なことが受け入れられない、理解できなくても当たり前だと思いませんか?
全てを肯定的に受け入れようとする、理解しようとするから苦しくなるのだと思います。
私はカトリック信者ですが、キリスト教の歴史を全て理解して、受け入れられているわけではありません。正直なところ、理解できないこともたくさんあります。
それでも信仰心は揺らぎません。
また、これまで、仕事などを通じて、様々な国の人たちと接してきましたが、「自分が正しい」とか「優位性」を感じた視点に立てばたつほど、また、自分とは全く異なる文化で育った相手を無理やり(自らの論理で)理解しようとすればするほど、結局はその違いに対する苛立ちや不満につながっていいくだけでした。
ですが、「なぜ?」から入らずに、「なるほど」から入ると、そこからポジティブな「受容」が始まります。対象によっては、それが自分にとっての深い興味や研究対象になっていくこともあります。
受け入れようとする、理解しようとするのではなく、まずは(自分とは)異質であること自体を受け止めること。自分とは異なることがあることをポジティブに受け止めてみる。
知らないことや異質と感じられることに出会えたことを喜ぶ。
そういう好奇心をもてるかどうか。
私も数多くの「異質」経験をしてきましたが、行き着いたところは、こんなシンプルなことでした。
「個性」だって、生まれ持った資質や性格を受け入れてこそ、更に磨かれるものです。
「個性」を否定してしまったら、その先に自分らしい人生はなく、結果、自分も他人も受け入れられない、ただの不平家として一生過ごすことになりかねません。
個性を育てるのも異質性を受け止める能力も、その人の受容力と好奇心の度合に応じているように思います。
2013年4月29日
2013年1月14日月曜日
仕事の価値観
突然ですが、
「仕事が楽しい」とはどういう状態のことをいうのでしょうか?
「楽しい仕事」とはどんな仕事なのでしょうか?
別に言葉遊びをしているわけではありません(笑)
どんな仕事や職業にしろ、人間の人生において、時間的にも心身的にも一番のウェイトを占めることになる「仕事」、または「労働」。
「仕事」や「労働」をどうとらえるか、それにどう取り組むか又は向き合うかというのは、人生においてとても大きなことだと思います。
ある人にとっては、仕事はあくまで家計のためや金儲けの手段としか捉えられなかったり、また、生活手段ではあるが仕事選び(どんな仕事をするか)も重要という人もいるでしょう。
一方で、仕事は自己実現の手段であり、仕事・労働に自己投影することこそが重要であって、金銭的見返り(報酬)は単に結果として得られるものでしかなく、金銭的報酬自体は重要ではない、という人もいると思います。
仕事の捉え方自体、人それぞれなわけですから、「仕事が楽しい」とか「楽しい仕事」について考えること自体が意味のないことと言われてしまいそうです。
楽しいかどうかを考える以前の問題として、仕事の意義や目的を二元論的で論じることなどできないことをまず踏まえることが先かもしれません。
ただ、人によって仕事の捉え方が様々であるからこそ、ある人にとっての仕事の価値観、つまりその人の人生における仕事の位置づけや思いが、一緒に働く組織における同僚、仲間と食い違っていればいるほど、その人は辛い仕事生活を強いられることになるのではないでしょうか。
私にとっては、仕事とは自分を成長させてくれる糧であり、かつ国家や地域など社会という人間の集まりの中で生きていくために基本的に誰もが果たすべき任務、家計という観点からの生きていくために必要な任務でもあります。
どの認識も不可欠だと思いますが、一番重きを置いているのは、「自分を成長させてくれる糧」です。私にとっての成長とは、これまで試行錯誤しながら生きてきた中で築かれてきた人生観、人生の信条・価値観に沿った人生を歩むことに少しでも近づくことだと考えています。
そのような価値観を抱くようになったこと自体がこれまでの成長だと思っていますが、今は誠実に信じることができる価値観も、また変わってくることがあるかもしれませんので、その意味では、その価値観に沿った人生を歩むことにチャレンジしつつ、軌道修正することも必要です。
自分が望む生き方を志す、そのためにあるのが仕事であり、勉強であり、家庭・家族であり、人間関係であるととらえています。
そして、この成長というものに終わりはないと思います。
人生は一生旅路だとの思いが自分にはあり、人間として一生涯、この世のあらゆることに好奇心を持ち続け、学び、気づきを得続けたいと望んでいます。
その限りにおいて、仕事はそんな自分の人生を歩むうえで最も大きな比重を占めています。それは、人間としての生に「労働」というものが本質的に潜んでいるからだと思います。
「働かざるもの食うべからず」
こんな言葉があるくらい、人は働いてこそ社会の中で人として認められるという常識があります。
子供の頃に勉強するのは、大人になって働くための準備期間であり、単に中身というだけでなく社会に出て働いていくための社会生活性、習慣やルールを学んでいくための期間でもあります。ただ、この言葉が働きたくても働けない人たちに対する誤った偏見として使われることがあるのは残念でなりませんが。
人が共に働くことで社会が築かれる、共同生活が営まれるのですから、労働は人間にとってそもそも本質的な行動、欠かすことのできないものなのだと思います。
これはそもそもの前提論のようなものですが、ここを確認してこそ、初めて労働の中身や意義を議論することができるのではないかと思い、敢えて原点に戻ってみた次第です。
私にとって、初めての労働を遡れば、中学生のときにした近所の植木屋さんでのアルバイトでした。まだ中学生でアルバイトをするのは珍しかったと思いますが、たまたまある年の夏休みに、我が家の庭木管理をしてくれている植木屋さんから声がかかり、たしか1週間程度だったと思いますが、アルバイトとして働かせてもらいました。
そのときは、仕事をしているという感覚はなく、いわばお手伝いのようなもので、お小遣い稼ぎという感じだったと思います。それでも、そこで初めて手にした労働の代償としてのお金は、とても嬉しかった記憶があります。お客さん宅で庭木管理をしていると、お昼に出してくれるお茶だったり、おやつをいただいたりすると、とても嬉しかったし、心地よい気持ちが強く残ったのを覚えています。
その後、学生時代にはアルバイトとしての労働に勤しみましたが、やはりあくまでお小遣い稼ぎの手段としての位置づけであり、労働そのものに対する思いや感受性はそれほどなかったと思います。それこそ、「楽しい」などという感覚は皆無でした。
そんな自分ですが、浪人生時代に、当時の予備校の国語(現代文)の先生のすすめで読んだ黒井千次さんの「働くということ」(講談社現代新書)。この本が、私に「労働」について初めて洞察することになる機会を与えてくれました。
その後、大学を卒業して社会人として仕事が中心の生活になった後、苦悩する度に原点回帰のためにこの本を読むようになるとは思いもしませんでした。いま現在でも読み返すことがありますし、私の人生と労働に示唆を与えてくれた本の一つです。
黒井さんは、「人生とは働くとは何かを問い続けること」と同書で述べており、よって「労働」が病んでいるときは私生活も病んでいる、といっています。労働が病んでいれば、その人の人生も病んでいる、といっても言い過ぎでないと思います。
いま、その「労働」が病んでいると至るところで言われています。
過労、ストレス、機嫌の悪い職場、いじめ/嫌がらせ、リストラ、就職難。
労働に関するネガティブで悲観的な言葉が巷にあふれているようです。
そして、私自身、それに近い場に実際に身を置いていた経験もありますし、一方で、「ワクワク感」や「充実感」を感じられるポジティブな生の状態での労働の経験もありますので、その落差に翻弄されてきたところもあります。
ポジティブな状態でワクワクしているといっても、普段の遊びの意味での「楽しさ」とは次元が異なります。状況としては、困難な壁にぶつかったり、それこそピンチに陥るようなことがあっても、一緒に働くメンバーが目標を共有できているので、それに立ち向かおうとする気勢がもて、それこそワクワクするようないい緊張状態です。かつ、それを実際に乗り越えることによって達成感、充実感を感じられるという心理状態なのだと思います。
そういう心理状態のときは、たくさん働いても疲れは身体的な疲れでしかないので、適度な休息をとることですぐに回復しますし、心地よい疲れにすら感じられるほどです。
ところが、組織の方向性がわからずに自分がしている仕事の意義が感じられなかったり、一緒に働いている仲間とコミュニケーションがとれない、理不尽なやり方を押しつけられながら働いていると、それはもうストレスとなってネガティブな気が自分の中に充満し、身体的な疲れ以上に精神的・心理的な疲れが大きく、暗雲たる気持ちとともに身体が重くなり、いずれは仕事自体が嫌いになってしまいます。
私はいまこう思います。
例えば、いま毎日会社へいってしている仕事。その仕事自体が嫌いということではなく、その職場・組織の在り方や将来へ向けた目標、ビジョン、また同じチームのリーダーや仲間に「共感」できていないから、仕事が好きになれなかったり、ネガティブ思考が生じてしまうのではないでしょうか。
つまり、私の場合は、基本的に自分がどんな仕事をするか(職務を担うか)ではなく、「誰」とするか、及び、その組織が何を目指しているのか、社会の中でどう在ろうとしているのかが重要であり、そして、そこに向けてリーダーを筆頭に組織全体で努力していけるような「場」を求めているのだろうと思います。
ただ、幸か不幸か、これまでの自分には、キャリアの最初に経験した新規事業立上げに従事した約4年間以来、そのような「場」にはなかなかありつけませんでした。
それは、自分があまりにそれを「求める」ばかりでいたせいか、いつの間にか「見つける」ことに固執しがちになってしまい、結果として失敗し、落胆し、また求め、ということを繰り返していた時期があったと思います。
そんな試行錯誤を繰り返してきた中で、失敗から学びつつ、自分が追い求めたいと思う人生の価値観が明示的になってきたのが過去5年ほどの仕事生活。
一昨年には大きな挫折も経験し、心身ともに一度は病み沈みましたが、「自分はこれだけのもの」という謙虚な思いに立ち返ることができました。
そして、身の丈を踏まえた上で、自分の意思と共感しあえる人と仕事がしたいという純粋な思い、仕事に対する好奇心、仕事を通じた新しい気づき・学びへの思いが今まで以上に増し、今に至っているところです。
いま言えることは、「場」を求めれば求めるほど、そういう「場」は向こうからはやってきてくれないということ。つまり、「場」を求めるのではなく、自らがそういう「場」と「チーム」創りに貢献すること、そしてその「場」で同志と一緒に成長していく、それこそが自分が進むべき道なのではないかと思うようになりました。
折しも、この変化の恐ろしく早い現代において、一つの成功が変化に翻弄されて長続きせず、また国境を越えた競争環境が実現されたことで、金とヒトの流動化が激しくなり、それこそ以前のように一つの仕事、組織、社会に属していることで安定できる時代ではなくなりました。
それを考慮すると、以前の一般常識的価値観からすれば恐怖的な状況にみえる「いま」も、別の面からみれば大きなチャンス・機会でもあります。読んで字のごとく、「危機」はもピンチにもチャンスにもなるわけですからね。
ある(一つの)組織に属して仕事をするというスタイルは、「労働」の選択肢の一つに過ぎなくなるだろうと私は思います。
複数の組織に属しながら仕事をするスタイルも常識的に許容されるようになるかもしれません。
例えば、(組織への表面的な関わり形態は様々に考えられるとして)専門性を生かしてプロジェクト的に複数の仕事をかけもったりするなど。いろいろな労働の形態が出てきてもいいと思いますし、もちろん、これまでのように一つの組織に専従して仕事をしていくスタイルだってあり続けるでしょうし、ベストな結果を出す、目指す目的に応じた組織・労働形態があっていいのではないかと思います。
求められる仕事の中身や事業内容によって、組織への所属形態も働く人のスタイルも多種多様になっていくだろうという思いは、これまでの20年近くの仕事経験、とりわけ大企業から中小企業までの組織・仕事経験があり、また、独立して個人事業を営んでいる友人や専門職で生き歩いている友人・知人との付き合いの多い私のいまの実感です。
実際に必要性に応じて多様性が生じているのですから、そういう多様性を受け入れる社会構造に変わっていくだろうとも思います。
そういう流れの中で、仕事において何が一番大事なことか?
それは、自分が「何をするか?」以上に、「目指すべき方向や社会的存在意義」に関連して自らが共感できる組織・事業、、またそれを「誰と一緒にやるか?」ということではないでしょうか。
私はいま、メインの仕事をする一方で、(内発的モチベーションにより)自分と同じく股関節に障害をもつ方々の痛みの除去に少しでも貢献することができればとの思いで、ある事業の支援も行っています。
どちらも同じくらい大事なことです。
ここで最初の自問です。
「仕事が楽しい」とはどういう状態のことをいうのでしょうか?
「楽しい仕事」とはどんな仕事なのでしょうか?
以前であればこう答えていたと思います。
日々の生活にワクワクできる、毎日朝起きるとパッ!とポジティブな明るさに包まれる、そんな思いで生きれるとき、楽しい仕事をしているのだと思います。難しい問題・高い壁にぶちあたったとき、「よーし、やってやるぞ!」と自然に思えるような状態。
これに付け加えて、いまはこうも思います。
同じ志をもつ仲間と一緒に時を過ごせること。日々のどんな出来事にも感謝できる心がベースにあり、かつ未知なることへの好奇心を失わずに喜びをもって毎日を生きることができること。
そういう毎日を過ごせることが、「仕事が楽しい」という生活と同義なのではないかと思うようになりました。
「仕事が病んでいる」
そういう人や職場が本当にメジャーになっているのであれば、それは本当に残念でなりません。
仕事で病んだ心身を他のことで完全に癒すことはできないと思います。
「仕事で健康になる!」、自分がそういう機会を提供できる立場に立ちたいというのが目標です。
一人でも多くの人が、自分らしい労働・仕事を見つけられることを願ってやまないですし、それには人によって差があるでしょうから、時間的な早い遅いがあるのは当然でしょう。
どんなに時間がかかっても、「自分らしく生きたい」という思いを不断に持ち続け、問い続けていくことによってのみ、道が開けるのだと私は信じています。
2013年1月14日
2013年1月4日金曜日
失敗と謙虚さ
「人の営みを暖かく見る見方だけが新しいものを生み、人間の文化を豊かにする」
これは、“失敗学”の第一人者で有名な畑村洋太郎氏の著書『失敗学のすすめ』の中で同氏の持論として記された言葉です。
「失敗」 「ミス」
その大小にかかわらず、どうしても否定的にとらえられてしまう出来事ですが、ここ数年、「失敗からいかに学ぶか」が自分にとっての大きな課題でもありましたので、新年を迎えてどうしても最初に触れておきたいと思い、今回のテーマとしてみました。
「失敗は成功の母」
この諺を知っていて同意する人は多くても、また「失敗やミスをしない人間なんていない」と表面的にはわかってはいるつもりでも、自分であれ他人であれ、現実の失敗という事象に対して、それを肯定的に受け入れて、次の営みに向けた糧として活かすことは、実はかなり難しいことだと思います。
実際に、私自身、これまで他人の失敗を許せなかったり、逆に自分の失敗について自責の念が強くなり過ぎて落ち込んで自信をなくすという経験を何度もしてきました。
自責思考は悪いことではなく、ただ、それを次への糧として活かせればいいのですが、「喉元すぎれば熱さを忘れる」ではありませんが、いつの間にか自分の失敗は忘れて、再び失敗以前の状態に戻ってしまいがちです。
私の人生も40歳を過ぎ、ここ数年でようやく“体感”として文字通り身体で実感できるようになってきたことがあります。
それは、
「失敗を糧にできるかどうかはその人の謙虚さによる」
ということです。
失敗をうまく人生の糧として成長してきた人にとっては、「そんなの当たり前じゃないか」と笑われてしまうでしょう。また、若い頃から人望厚く、優れた人間力をベースにリーダーシップを発揮している人にとっては、自分に対しても他人に対しても謙虚であることは自然なことであり、きっと意識をしなくてもそういう心の在り様に至っているのではないでしょうか。
でも、残念ながら、私はそういう心の在り様に至ることがなかなかできませんでした。
同じような失敗を幾度となく繰り返しながら、都度、振り返り(反省)をして次へ活かそうとするものの、ある時は間違った方向へ自分を導いてしまったり、またある時は方向は正しいようでも実践が伴わないうちに元の状態に戻ってしまい、結局再び失敗してしまった、ということがありました。
その一番の例が「転職」でした。
いま思うと、結局は、失敗の原因を自分のエゴ、都合のいいように解釈しようとしてしまっていたこと、そして、客観的に失敗の現実を直視・分析しつつ、主観的に活かすことができなかったことが主因だと思います。
自己理解、自己受容の未熟さが故であったともいえますが、要は謙虚に自分を視れなかったことが一番の原因であったと思います。
謙虚であるとは、本当なら見たくもない、忘れてしまいたい失敗を真正面から見れる姿勢であり、他人から批判されたり反論されたり、また、自分が欠点とおもっているところを指摘された際にも、それに冷静に耳を傾けられる姿勢であり、いわばそういう心の在り様なのではないかと私は思います。
相手が家族などの身内だったり、仲の良い友人であったり、関係性が深い人から言われたことの方が受け入れ難いという人もいれば、その逆に身近で感情的になれる相手からの苦言・提言は素直に聴き入れられるが、外での関係性、例えば、組織の序列的な観点からみて自分と同等、又は下位にいる人からの指摘は受け入れ難いという人もいると思います。
要は、「身内」であろうと「(身)外」であろうと、自分と相手の立場的な関係性、例えば、年齢や序列、上下関係、そういったものが相手の話を聴く際に一種のフィルターのようになって、それが自分に都合のよい「歪み」を生じさせてしまい、結果、謙虚さの欠如につながってしまっているのかもしれません。
そして、これこそが「失敗」という事象の捉え方に対するポイントであるように思います。
更には、その人自身の過去の体験(とりわけ成功体験)やこうあるべきという強すぎる思いがフィルターとなり、歪んだモノの視方を生じさせてしまうこともあります。
これらはまさに私自身の体験からきているものですが、私の場合は、自分のことを一番わかってくれている親や妻からの苦言や助言に対し、それを素直に聴けるかどうかが自分が謙虚な心の状態になっているかどうかを測る物差しになっています。
「謙虚さ」の視点をさらに突き詰めてみると、失敗を糧にできるかどうかは、自己・他者との関係性にかかわらず、プライドや過去の成功体験への固執から自分をいかに解放できるかどうかにかかっているように思います。
私は、特にここ数年は自分にとっての人生の価値観通りに生きようとする信念と(悪い意味での)頑固さとが混同してしまうことが多く、ひどいときには(その価値観に対する)誠実さと謙虚さのバランスを欠いてしまうことがありました。
『一切の気取りと背伸びと山気を捨てて、自分はこれだけの者という気持ちでやろう』
(作家・尾崎一雄)
自分が失敗したときに現実を直視できるか、また人から耳の痛い話を言われたときにそれを聴くことができるか。それはこの言葉のような心の在り様になれるかどうかだと思います。
言葉にすると簡単なように思えますが、私のような凡人にとっては、現実の生活の中で痛く辛い思いを何度も経験して(身体に染み込んで)、ようやく、自然な感覚としてそう思えるようになりつつあるというところです。
冒頭の畑中氏の言葉に沿えば、自分の失敗に対しても他人の失敗に対しても同じようにに謙虚になれるかどうか。
自分がそうでないからこそ、「そう在りたい」と願う。
そして、その根底となる「自己受容」と「他者受容」について不断に問い続けていきたい。
2013年1月4日
2012年12月1日土曜日
「資産」とは?
突然ですが、
「資産とは何ですか?」
と問われたら、
個人だったら、土地・家、車、現金、株式などの証券、などと答える方が多いでしょう。
では「会社にとっての資産は何ですか?」
と問われたらどうでしょう。
現金や債権、土地や建物などの固定資産、などと答えるのが一般的ではないでしょうか。
先月、「学びの鬼」であり(私が勝手にそう言っているだけです)、「学びの師範」(私が勝手にそう思っているだけです)でもある会計士・田中靖浩先生と、最近、『「たった1人」を確実に振り向かせると、100万人に届く。』という本を上梓された阪本啓一さんのコラボ講演会(田中塾)へ参加してて、この問いに対する大きな気づきと自分の思考との一致を見ました。
テーマは「会計とマーケティング」。
アカデミックな観点からだったり、また一般企業の組織的な観点からすると、あまり交わるイメージのしない分野ですが、私自身は、これまでの仕事歴でどちらも経験したことがあり、またキャリアの最初にマーケティング・営業的な仕事をして、その後に財務経理の道へ進んだので、「現場=自社と顧客をつなぐ場」で何が起きているのかわからないと、バックオフィスでただ数字だけ眺めていても全く実感がわかないし、気持ちが悪いので、できる限り現場の人とかかわるようにして「現実」と「数字」の接点を見つけようとしてきました。
したがって、この両者は全く別物といった思いもなく、それ以上に興味のもてるコラボという関心の方が大きく、結果的にとても「学び」と「気づき」の多い、密度の濃い時間を過ごすことができて楽しかったです。
会計の専門家である田中先生の講義とマーケティング&ブランディングが専門の阪本さんより、それぞれの分野から、マクロ的な視点(田中先生)、ミクロ的な視点(坂本さん)からの新時代を生きるための考え方や視点をお話しいただきました。
お二方のお話を聴いた感想としての接点をあげれば、
現代の社会構造の劇的な変化(「第4次産業革命」 by 阪本さん)によって、会計しかり、マーケティングしかり、既存の枠組みに沿ったものの考え方、やり方が全く通用しなくなっており、既成概念を否定して実利的な視点にたち、本質を追求することを第一義的にすべき、ということでしょうか。
要は、根本から考え方をあらため、いま及びこれからを生きるうえでのリアリティのある活用を考えなければならないということだと理解しています。
田中先生による講演、『新時代の「会計」を学ぶ』の中で、先生は、戦後以降の経済成長率の推移・成長の各ステージをみながら、いまはこれまでの会計・簿記が全く機能しなくなっているし、むしろリアリティを追求する上での阻害要因になっているということをお話しされました。
その最たるものが、既存の会計制度によって作成された「決算書」です。
決算書がその機能を果たせなくなっているというお話でしたが、中でも、本記事のテーマでもある「資産」。
「資産とは過去の取引または事象の結果、特定の企業が支配する経済的利益であって、将来享受できる可能性の高いもの」とされています(米国会計基準による定義。古いので最近かわっているかもしれませんが・・・)。
わかりにくいですが、要は、将来にその会社に利益を生み出すための源泉になるもの、ということですが、それも様々な基準を満たしたモノだけが資産として計上できるのです。
これまでの常識的な観点からすると、冒頭に記したような、現金や売掛金などの債権、固定資産などが一般的にはあげられるでしょう。
ですが、前出の田中先生も言っていましたが、決算書における「資産」には見落とされている大きなものがあります。
それは「人」です。
なぜなら、会社を動かしているのは、紛れもなく「人」だからです。
どんなに価値の高い資産をもっていたり、キャッシュをたくさんもっていようが、それを生み出すのも、壊すのも「人」です。
人件費という名の単なるコストはありません。
その「人」という資産が決算書には表示されていません。
たしかに、決算書を見れば、ある基準によって算出された業績、つまりその会社が(直近で)どういう業績を残しているか、及びある一時点の所有物や債権・債務等を垣間見ることができます。ですが、投資家にとっては(ある目的のための)会社分析資料にはなりえても、その会社の本当の実態は読み取れないと思います。
それは、会社には実態はなく(法人格という権利・義務主体でしかありません)、「人」の集合こそが会社の実態であり、その会社にどういう経営者や社員がいて、そのひとたちがどんな志をもって働いているかは決算書からは読み取ることも感じることもできません。
一時期、一世を風靡する程の成功を収めたもののあっという間に消えていってしまう会社もありますが、これなどはまさに会社を運営するのは「人」であり、その「人」のおこないによって、成功もすれば失敗もするということです。
それなのに、なぜ財務諸表には「人」が資産として表示されないのでしょうか?
「そんなことあたりまえじゃないか!」
「じゃあ、社員を数値化して(価額にして)財務諸表に載せる方法でもあるのか?そんな基準作りをすること自体がナンセンスだし、企業毎の自由にしたら、それこそある一定の基準に従って作成することで比較可能となる財務諸表の根底を崩して、それを利用する人(特に投資家たちを)混乱させるだけじゃないのか!」
と、言われてしまいそうです。
財務経理をやってきた自分も、米国基準やら日本基準やら国際基準やらの「会計制度」をベースとし、前例に従って、モノゴトを進めてきましたし、目的としての財務諸表の在り方を否定するものではありません。
私は、マネジメントの道へ進むために、財務経理をいわば自分のコアスキルとすべく、この分野に携わってきました。その勉強のために、米国公認会計士資格も取得しました。
資格取得と前後して、財務経理の道へキャリア転身し、実務として財務会計や管理会計、ファイナンスに携わってきましたが、皮肉なことに、やればやるほど何ともいえないモヤモヤした気持ちが強くなっていきました。
その理由は、ズバリ、実利的でない、実際の経営に役立っていると感じられないからだと思います。
例えば財務会計においては、外部の投資家に会社の実情を開示するという大義名分がありますし、かかわっているときにはその責任の大きさも感じていました。ですが、複雑化・多様化するビジネスや取引実態を無理やりに数値化しようとするため、制度自体もどんどん複雑化していき、何のためにいまの財務会計があるのか疑問に抱くようになると同時に、この変化の激しい時代、実態経済や個々のビジネスの形態が多様化している中で、ある一定の枠組みに無理やりまとめようとすること自体が無理なのではないかと思うようになりました。
繰り返しますが、だからといって財務諸表の役割そのものを否定するものではありませんし、必要なものであることも理解しています。
これからは、利用者にとってはその使い方であったり、作成側にとっては、そこにかけるコストや考え方も見直していくことが望まれると私は思います。
ちょっと話が横道にそれました。
資産に話を戻しますが、資産とは将来の収益を生み出すもとになるもの。
そうであるなら、(大企業だろうが中小企業だろうが)「人」の力やつながりこそが将来利益の源泉であるといえないでしょうか。
いまあらためて「あなたにとっての資産は何ですか?」と問われれば、私は迷わず、
「自分がこれまで学んできた全てのことであり、また友人、知人とのつながりであり、そして家族です」
と答えます。
「仕事の友人こそ生来収益のもと!」
「100万円貯めるより、100万円一緒に稼ぐ仕事の親友を作れ!」(田中先生)
会社に頼るのではなく、何があっても生きていけるような自分の強みをもつ。その上で、一緒にいつでも仕事をできるような「仕事の友人」をたくさんもつことで、自ら生きる道を切り開く。この言葉からはそんな思いを感じとりましたし、私自身もそういう思いでこれまで生きてきました。
形から入る(会計でいえばその基礎である簿記から入る)前に、まずは本質をつかむこと。
リアリティ、本質を追求していけば、会計を例にとっても、いかに時代遅れになっているかがわかります。
「資産は人なり」
当たり前のようで、本質的な事実。
そして、この「人」という究極の資産を収益に結び付ける方法を本気で追求する、今の時代を生き抜くにはこれしかないと思います。いや、「いつの時代も」ですね。
それには、画一的な方法などないでしょう。
それぞれの個人、会社が目指すビジョンや使命に応じて、やり方は千差万別だと思います。
ただし、最終的には、そこに集う人が同じ志をもち、同じ方向を向いていなければ、その声はそれぞれの対象(顧客)には届かないとも思います。
“お墨付き”の必要な財務諸表に「人」を資産として表示すべきかどうかについては、正直どうでもいいです(笑)
ただ、外部の誰かからの“お墨付き”などなくても、いつか本当に自分の会社の「人財」を資産に表示してみたいですね。
自分の会社・ビジネスに共感をもってもらうために、「うちの会社にはこんな人たちが集っているんですよ」、ということを会社の価値として示すことができれば素晴らしいですね!
2012年10月27日土曜日
The Sense of Wonder
The Sense of Wonder (センス・オブ・ワンダー)
もうかなり前のことですが、ある英語雑誌を読んでいてこの言葉に出会ったとき、なぜだかわかりませんが、とてもいい響きと暖かく優しい感覚に包まれました。
日本語では、
「感動の気持ち」
「不思議さに驚嘆する感性」
などと訳されますが、自分にとって、子供のころに初めて見たり、聞いたり、体験したりして感動していた記憶を瞬間的に蘇らせるような言葉でした。
最近になって、ある本を読んでいるときに再びこの言葉に遭遇したのですが、その際にこの言葉にまつわることをいろいろ調べたいと思い、ネット検索をしていたところ、まさにこの言葉そのままの"The Sense of Wonder"という本のことを知りました。
アメリカのベストセラー作家であり海洋生物学者でもあったレイチェル・カーソンという女性が書いた本ですが、この作品が世に出たのは1956年という今から50年以上も前のことで、正確には本として出版されたのではなく、ある雑誌に掲載された彼女のいわば短編作品とのことです。
お恥ずかしながら、私は彼女のことを知らなかったのですが、レイチェル・カーソンは、ベストセラー「沈黙の春」(Silent Spring)の作者として、当時の社会(まだ環境破壊への認知が低い時代)において環境汚染などの問題提起をして大きな社会的注目を浴びていたそうです。
レイェルは、地球の素晴らしさは生命の輝きのなかにあると信じていて、地球はあらゆる生命が織りなすネットで覆われている、その地球の美しさを感ずるのも、探求するのも、守るのも、そして破壊するのも人間なのです(「訳者あとがき」より)、といっています。
当時、ガンにおかされていたレイチェルは、このエッセーをふくらませて単行本として出版することを考えていたようですが、残念ながら夢かなわず、1964年にわずか56歳の生涯を閉じてしまったのでした。
そして、彼女の死後に友人たちが彼女の夢を果たすべく、原稿と写真を整えて、出版したのがこの本です。
The Sense of Wonderの日本語版を読んで強く共感し、続けて英語版の原書も購入して読んだところ、そこには更に美しい写真によるマクロ、ミクロの自然の世界が広がっており、瞬く間に魅了されました。
以下、私が特に印象に残った文章の抜粋です。
「子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直観力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。もしわたしが、すべての子どもの成長を見守る善良な妖精に話しかける力をもっているとしたら、世界中の子どもに、生涯消えることのない「センス・オブ・ワンダー=神秘さや不思議さに目を見はる感性」を授けてほしいとたのむでしょう。この感性は、やがて大人になるとやってくる倦怠と幻滅、わたしたちが自然という力の源泉から遠ざかること、つまらない人工的なものに夢中になることなどに対する、かわらぬ解毒剤になるのです。」
"A child's world is fresh and new and beautiful, full of wonder and excitement. It is our misfortune that for most of us that clear-eyed vision, that true instinct for what is beautiful and awe-inspiring, is dimmed and even lost before we reach adulthood. If I had influence with the good fairy who is supposed to preside over the christening of all children I should ask that her gift to each child in the world be a sense of wonder so indestructible that it would last throughout life, as an unfailing antidote against the boredom and disenchantment of later years, the sterile preoccupation with things that are artificial, the alienation from the sources of our strength."
簡易な英語文体で書かれており、英語でも声に出して読みたい本です。
読了後、感化されやすい私は、先月ちょうど次女が6歳の誕生日を迎える直前だったこともあり、大きな虫眼鏡と持ち運び可能な顕微鏡を誕生日プレゼントとして買い与え、自然がまだ残る近所へ出かけて植物や虫など、ミクロな世界を一緒に見まくって、久しぶりに童心に帰りました。
蟻の巣をほじくりかえして、蟻の「住み家」を2人で長々と眺めて、数えきれないほどの蟻たちが統制されて動く様をじ~っと眺めました(蟻さん、家を壊してゴメンなさい)。自分も子供の頃に同じことをして蟻の生態をマジマジとみながらボーっとしていたことを思い出しました(ただただ不思議な世界に見入っていただけだと思いますが)。
また、名も知らぬ小さな虫を見たり、植物(の一部)を持ち帰って、家で娘と一緒に「おぉ~、キレイ!」とか「これ不思議なカッコウしてる〜」などと言い合いながら顕微鏡で眺め合いました。
この世の中には私たち人間が知らないこと、見たことがないものなどはまだまだいくらでもあるでしょう。それは何も文字通り全く目にしたことのない動植物などだけでなく、実は普段から視野や耳に入ってきている(けれど全く気づいていない)ものも数多くあることと思います。
この本を読んで以来、私は特に近所の自然、山の景色や植物を意識してみるようになりましたが、するとこれまでも視界には入っていたはずなのに、気づいていなかった素晴らしい景色がたくさんあることに気づくようになりました(物理的な自然にいつでも触れられるというのは、緑豊かな自然と海に囲まれた“田舎”に住んでいる特権でもありますね)。
毎朝、出勤の際に駅へ向かう道端にある木々や植物を意識して見ていると、その移り変わりがよくわかるし、これまで気づかなかった見知らぬ植物に思わず目を奪われることもあります。
レイチェル自身は、この美しい地球上に残る自然との共生を望んでいたと思いますし、彼女からは、その地球に生きる人間としての"Sense of Wonder"を大切にしたいという思いが切実に伝わってきました。
一方で、Sense of Wonderは、何も物理的な自然に対する感覚に限ったことではないと思います。
人間も自然の一部であり、その人間が営む生活において、知らないことを知り、また素晴らしい人間の営みに素直に感動することもSense of Wonderであると私は思います。
新しいことを学ぶ、気づく、人と知り合う。忘れていた大切なことに気づくことだってSense of Wonderではないでしょうか。
ただし、対象が何であれ、このSense of Wonderの気持ちをもてるかどうかはただ一つ、自分の人生に好奇心があるかどうかだと思います。
それも謙虚さに基づいた好奇心。
もし何か一発当ててやろうとか獲物を狙うといった私利私欲や傲慢さに基づいた好奇心だったら、モノの見方、視野が狭くなって、結局は本当に見るべきものを見過ごしてしまうのではないでしょうか。
それよりも、(一見矛盾するように思えるかもしれませんが)何も「求めない」心の在り様で、それでも意識を外に向けて「好奇心」の目で周囲をみていると、毎日見ている景色が違って見えてくるから不思議です。キョロキョロとせわしなく探すのではなく、ただ意識を外に向けるようなイメージといえばいいのでしょうか。
普段の何気ない生活、仕事の場、家庭の場、どんな場所でも何気なく過ごしていると見過ごしてしまうことでも、意識の持ちようを変えるだけで眺める景色も変われば、平凡な生活模様からも新たな気づきがえられます。
私は毎日仕事にいきますが、職場の風景や仲間も、ただ日々の生活の中で当たり前の風景・姿として流すことなく、ある視点・意識をもって眺めたり接していると、新しいことに気づいたりするので面白いです。
人間は、言葉を話すことができます。行動で思いを表現することができます。
そのもとになっているのは、人間としての感情。
人間は感情的な生き物ですから、仕事場に感情を持ち込まないなんてことはできません(と私は思います)。
ですので、人間観察をしていると、そして日々の何気ない会話の中からもその人の情動が伝わってきます。
旧時代を懐かしむようなことはあまり言いたくはないのですが、私の個人的な体験として、昔は(15年以上前ということにしておきます・・・)、私の職場の仲間には、感情を素直に出す人が多かったので、ある意味でとても人間的な付き合いができました。
例えば、失恋して辛い気持ちで仕事をしている人や、嬉しいことがあるとその人のハッピーな感情が職場にまで充満しているのを感じることもありました。一方で、最近は、全くの無表情で(各自が)決められた仕事をただ黙々とこなすだけで会話もなく、無表情・無感情な人が多くなったように思います。
いや、本当はもっと感情表現したいのに、無感情・無表情であることを装っているようにも見えます(職場の雰囲気やリーダーの言動がそれを無意識のうちに引き起こしているのかもしれません)。
これは、もちろん、あくまで私の主観的な意見ですし、ここで(組織行動や成果の面から)良い悪いを論じたいわけではありません。
感情的であることを認めて(嬉しいことでも悲しいことでも)それをポジティブに表現する人には、私はとても人間的、つまり自然な魅力を感じてしまいます。
仕事の業務上の話以外にはなかなか口を開かない人がいたとき、どうしたらこの人の感情に触れることができるだろうかと思案していたこともあります。入り込もうとしすぎて逆に拒絶されたという失敗もありましたし、周囲から煙たがられている人と率直な話をできたときに、その見た目や印象とのギャップに驚き、またそこに触れることができた喜びを感じたこともありました。
私にとっては、これもSense of Wonderであり、それはやはり人間も自然の一部だからなんだと思います。
私は、生活の大半の時間をパソコンなど人工物に囲まれて過ごしています。
そして、そういう生活を捨てさることもできません。
だからこそ、自然との触れ合いを、レイチェルがいうところの「解毒剤」として自分の生活に有効に作用させ続けていきたいと素直に思います。
人生は旅路。
いくつになっても、Sense of Wonderの気持ちを忘れずに歩みたい。
2012年10月27日
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