2013年1月4日金曜日

失敗と謙虚さ


「人の営みを暖かく見る見方だけが新しいものを生み、人間の文化を豊かにする」

これは、“失敗学”の第一人者で有名な畑村洋太郎氏の著書『失敗学のすすめ』の中で同氏の持論として記された言葉です。

「失敗」 「ミス」

その大小にかかわらず、どうしても否定的にとらえられてしまう出来事ですが、ここ数年、「失敗からいかに学ぶか」が自分にとっての大きな課題でもありましたので、新年を迎えてどうしても最初に触れておきたいと思い、今回のテーマとしてみました。


「失敗は成功の母」


この諺を知っていて同意する人は多くても、また「失敗やミスをしない人間なんていない」と表面的にはわかってはいるつもりでも、自分であれ他人であれ、現実の失敗という事象に対して、それを肯定的に受け入れて、次の営みに向けた糧として活かすことは、実はかなり難しいことだと思います。

実際に、私自身、これまで他人の失敗を許せなかったり、逆に自分の失敗について自責の念が強くなり過ぎて落ち込んで自信をなくすという経験を何度もしてきました。

自責思考は悪いことではなく、ただ、それを次への糧として活かせればいいのですが、「喉元すぎれば熱さを忘れる」ではありませんが、いつの間にか自分の失敗は忘れて、再び失敗以前の状態に戻ってしまいがちです。


私の人生も40歳を過ぎ、ここ数年でようやく“体感”として文字通り身体で実感できるようになってきたことがあります。

それは、

「失敗を糧にできるかどうかはその人の謙虚さによる」

ということです。

失敗をうまく人生の糧として成長してきた人にとっては、「そんなの当たり前じゃないか」と笑われてしまうでしょう。また、若い頃から人望厚く、優れた人間力をベースにリーダーシップを発揮している人にとっては、自分に対しても他人に対しても謙虚であることは自然なことであり、きっと意識をしなくてもそういう心の在り様に至っているのではないでしょうか。

でも、残念ながら、私はそういう心の在り様に至ることがなかなかできませんでした。

同じような失敗を幾度となく繰り返しながら、都度、振り返り(反省)をして次へ活かそうとするものの、ある時は間違った方向へ自分を導いてしまったり、またある時は方向は正しいようでも実践が伴わないうちに元の状態に戻ってしまい、結局再び失敗してしまった、ということがありました。

その一番の例が「転職」でした。

いま思うと、結局は、失敗の原因を自分のエゴ、都合のいいように解釈しようとしてしまっていたこと、そして、客観的に失敗の現実を直視・分析しつつ、主観的に活かすことができなかったことが主因だと思います。

自己理解、自己受容の未熟さが故であったともいえますが、要は謙虚に自分を視れなかったことが一番の原因であったと思います。


謙虚であるとは、本当なら見たくもない、忘れてしまいたい失敗を真正面から見れる姿勢であり、他人から批判されたり反論されたり、また、自分が欠点とおもっているところを指摘された際にも、それに冷静に耳を傾けられる姿勢であり、いわばそういう心の在り様なのではないかと私は思います。

相手が家族などの身内だったり、仲の良い友人であったり、関係性が深い人から言われたことの方が受け入れ難いという人もいれば、その逆に身近で感情的になれる相手からの苦言・提言は素直に聴き入れられるが、外での関係性、例えば、組織の序列的な観点からみて自分と同等、又は下位にいる人からの指摘は受け入れ難いという人もいると思います。

要は、「身内」であろうと「(身)外」であろうと、自分と相手の立場的な関係性、例えば、年齢や序列、上下関係、そういったものが相手の話を聴く際に一種のフィルターのようになって、それが自分に都合のよい「歪み」を生じさせてしまい、結果、謙虚さの欠如につながってしまっているのかもしれません。

そして、これこそが「失敗」という事象の捉え方に対するポイントであるように思います。

更には、その人自身の過去の体験(とりわけ成功体験)やこうあるべきという強すぎる思いがフィルターとなり、歪んだモノの視方を生じさせてしまうこともあります。

これらはまさに私自身の体験からきているものですが、私の場合は、自分のことを一番わかってくれている親や妻からの苦言や助言に対し、それを素直に聴けるかどうかが自分が謙虚な心の状態になっているかどうかを測る物差しになっています。


「謙虚さ」の視点をさらに突き詰めてみると、失敗を糧にできるかどうかは、自己・他者との関係性にかかわらず、プライドや過去の成功体験への固執から自分をいかに解放できるかどうかにかかっているように思います。

私は、特にここ数年は自分にとっての人生の価値観通りに生きようとする信念と(悪い意味での)頑固さとが混同してしまうことが多く、ひどいときには(その価値観に対する)誠実さと謙虚さのバランスを欠いてしまうことがありました。


『一切の気取りと背伸びと山気を捨てて、自分はこれだけの者という気持ちでやろう』
(作家・尾崎一雄)


自分が失敗したときに現実を直視できるか、また人から耳の痛い話を言われたときにそれを聴くことができるか。それはこの言葉のような心の在り様になれるかどうかだと思います。

言葉にすると簡単なように思えますが、私のような凡人にとっては、現実の生活の中で痛く辛い思いを何度も経験して(身体に染み込んで)、ようやく、自然な感覚としてそう思えるようになりつつあるというところです。


冒頭の畑中氏の言葉に沿えば、自分の失敗に対しても他人の失敗に対しても同じようにに謙虚になれるかどうか。


自分がそうでないからこそ、「そう在りたい」と願う。

そして、その根底となる「自己受容」と「他者受容」について不断に問い続けていきたい。


2013年1月4日




2 件のコメント:

  1. 私も人によって著しく自分の謙虚さに違いが出てしまったり,一旦謙虚になっても,やがてその謙虚さが消えていき,過去の成功体験に酔っているタイプでした。

    参考になるサイトをありがとうございます。

    感動しました。

    お互い謙虚さを大事にしていきましょう。

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