2013年4月29日月曜日
異質・多様性の受容
以前、宋文洲さんが、『「価値観」の罠』と題したブログでこんなことを述べていました。
『「あの人と価値観が違うから」、「〇〇国と価値観を共有できるから」・・・ビジネスマンや政治家がよく口にするこの言葉に私は反対です。・・・
現実、夫婦間でさえ価値観はよく異なります。世界では民族が異なり、文化背景の異なる夫婦が普通にたくさんいます。異なる宗教同士の結婚も珍しくありません。価値観の違う夫婦はどちらかといえばむしろ幸せな場合が多いのです。相手、とくに女性を尊重することになれているからです。』
という前文の上で、
『同質社会の中で生きているうちに自分と他人の明確な相違がなくなっている』
とし、
『同質を求め、多様性を嫌うことの本質はこの「自分タチの価値観に慣れている」ことにあるのです。価値観を言う人ほど、自分ダケの価値観を持っていないのです。』
と締めくくっています。
生来の人見知りで臆病な性格を思うと、「同質」を好み、「異質」を受け入れることが苦手であったはずの自分が、大人になるにつれて現実には「異質」なことへ興味を抱き、また異文化・異質体験を通じて自己との葛藤に向き合ってきたことを思い返すと、「価値観」に関する宋さんのブログが自分の内側にググッと入り込んできました。
ただし、ここでは、自分だけの価値観をもつべきかどうか、といったことについて論じるつもりはありません。
価値観の異なる人、異文化、国など、「異質」なことにどう向き合っていくべきか、ということに思いを馳せてみました。
人は誰でも生まれながらにして「個性」や「色」をもっています。
誰ひとりとして、その人と全く同じ顔、身体、心、人格をもった他人はいないのですから、この世に生を授かった時点で「個性」は備わっているはずです。
ただし、当然ながら、生後の人生は、その人が生まれ育った環境、すなわち、家族、親戚、地域、国、文化、時代といった内的・外的環境に影響を受けることになります。
それによって「個性」も変化を遂げていくことになるでしょう。
身内であろうと全くの他人であろうと、人はそもそも「個性的」であり、「十人十色」であることを認識することは大切なことだと思います。
「個性」を無理やり生み出そうと躍起になる前に、そもそも自分は他者とは異なる、生まれ備わった「個性」があるのだということを認識すること。そこから、いろいろな経験や学びを通じて自己研鑽を重ねることによって、更に「個性」に磨きがかかるのだと思います。
一方で、人生を社会という枠組みの中からとらえてみると、自分とは異なる他者とどうやって生きていくか、つまり「共生」する力が必要とされます。
それは、あらゆる次元の組織、家庭や学校、職場、国など、大小あらゆる組織の中での生きる力ということになるのでしょう。
私は、その力を単なるスキルとはとらえていませんし、この世に生を授かり、その人に与えられた人生を生きていくためのいわば人間力としてとらえたいと考えています。
言い換えると、「個性」を社会の中で意義あるものにするには、確かな共生力が必要になるのだと思います。
共生力とは、多種多様な人生観をもつ人々が暮らすこの世において、秩序のある社会生活を維持していく力であり、一方で「個性」のベースとなるものであり、決して「個」とは切り離して考えることはできないと思います。
その人が生まれ育った国や文化、教育といったものによって、そこに暮らす人々のおおよその人間性の「枠」は固定化されてきますし、否応にも類似性は生じます。人間が社会的動物である以上、社会的ルールを守りながら生きる能力を養うことは必須ですし、結果として、「個性」のベースが均質化することは避けられないでしょう。
それを踏まえて「いま」という時代を眺めてみると、現代は、直接的であれ間接的であれ国という枠組みを超越した異文化コミュニケーションが容易にできる時代であり、かつてないほどに人々は権力による抑圧から解放された生活の自由度を享受している時代でもあります。
※独裁的国家権力を握る一部の人たちによって、今でも自由な生活、基本的な人権どころか、人間として生きる最低限の環境すら与えられず苦しんでいる人々がいることを無視してはならないのはもちろんです。
情報の伝達、コミュニケーションにおける国境がほぼなくなっている現代において、一見すると「同質性」「均質化」の拡がりが懸念されそうに思えますが、「同質性」に埋没することを避けようとする人間としての本能が働いているのか、「個性」や「異質」であることへの欲求も逆に強くなっているようにも感じます。
モノや生活スタイルという観点からは同質化しつつある世界において、その主役である人間は、「個性的」であること、自らの存在義を主張しようとしているかのようです。
振れ過ぎた振り子が元に戻ろうとするように、何事においても「行き過ぎ」はそれと同じ強さで反対側へ振り戻されることになるのではないでしょうか。
私が大学を出て就職した1990年代は、グローバル化されていく市場を、資金力の大きな企業が席巻し、M&Aなどによって企業の合従連衡が進みました。いわば、企業の巨大化が推進されていった時代でした。
ちなみに、私が新卒で入手した日系の会社も外資の波に飲み込まれ、M&Aを繰り返していました。
大きくとらえれば、いわば「均質化」への流れ。
そして、いまはあらゆるモノやサービスの市場も飽和しつつあり、変化のスピードがますます早まっていくこの時代において、「均質化」とは逆方向へと力が流れているようであり、存在感を増す「個性」の欲求に応えることができない大企業は、今度は迷路にはまっているかのようです。
規模の経済が有効な市場では、2~3の大企業だけが生き残り、多種多様な「個性」を満たす市場では中小企業がその役割を果たすべく機能しはじめているのではないでしょうか。
いずれにしても、時代は変わり、大きいもの・ことが良しとされるときがまたやってくるのかもしれません。
少し話がそれました。
いずれにしても、いまは個人の力が幅を利かせる時代であるのだと思いますし、この“グローバル社会”というとても抽象的な世界で生きる上では、具現的な個人力がこそが必要なのだろうと私は認識しています。
ここでいう私がいう個人力とは、「個性」に基づいた人生観であり、そしてその人生観に基づいた「受容力」を指しています。
言い換えると、「マインドフルネス」(人材育成分野で多くのことを学ばせていただいている酒井穣さんの言葉を借りれば、「自分の人生を「思い込み」に任せてしまうことなく、自分の人生に参加し、しっかりと生きるためのスキル」のこと)に生き、その結果を受容していくことだと思います。
私が考える「個性」とは、「自分らしく生きること」であり、「自分らしく生きる」とは、決して表面的に人と異なる生き方をすることではありませんし、無理やり異なるように見せる生き方でもありません。
また、反社会的に生きることが「個性」であるわけでもありません。
冒頭で述べた通り、人間にはそれぞれに「個性」があるのですから、その人が受け入れられる生き方であれば、それは「自分らしく生きている」ことなのかもしれません。
ですが、私個人としては、一歩踏み込んで、自分の人生に参加して「問い」を持ち続けながら生きたいですし、それがあってこその「受容力」だと思います。
そして、個人の「受容力」が、異質な他者を受け入れる「受容力」につながるのではないでしょうか。
自分を受け入れられない人が他人を受け入れられる優しさをもてるでしょうか。
自分を受け入れられない人、言い換えると、自分を許せない人は他人も許せないのではないでしょうか。
自分を受け入れるとは、現状をただ我慢するとか、自分勝手になるということではもちろんありませんよね。客観的に視た自分を認めるということだと思います。
自分で自分を客観的に視ることは難しいですが、個人的には自分を良く知る身近な人からフィードバックを受けることはいい気づきをえられます。そして、それを冷静に受け止めることができるかどうかがいい尺度になります。
異質なことが受け入れられない、理解できなくても当たり前だと思いませんか?
全てを肯定的に受け入れようとする、理解しようとするから苦しくなるのだと思います。
私はカトリック信者ですが、キリスト教の歴史を全て理解して、受け入れられているわけではありません。正直なところ、理解できないこともたくさんあります。
それでも信仰心は揺らぎません。
また、これまで、仕事などを通じて、様々な国の人たちと接してきましたが、「自分が正しい」とか「優位性」を感じた視点に立てばたつほど、また、自分とは全く異なる文化で育った相手を無理やり(自らの論理で)理解しようとすればするほど、結局はその違いに対する苛立ちや不満につながっていいくだけでした。
ですが、「なぜ?」から入らずに、「なるほど」から入ると、そこからポジティブな「受容」が始まります。対象によっては、それが自分にとっての深い興味や研究対象になっていくこともあります。
受け入れようとする、理解しようとするのではなく、まずは(自分とは)異質であること自体を受け止めること。自分とは異なることがあることをポジティブに受け止めてみる。
知らないことや異質と感じられることに出会えたことを喜ぶ。
そういう好奇心をもてるかどうか。
私も数多くの「異質」経験をしてきましたが、行き着いたところは、こんなシンプルなことでした。
「個性」だって、生まれ持った資質や性格を受け入れてこそ、更に磨かれるものです。
「個性」を否定してしまったら、その先に自分らしい人生はなく、結果、自分も他人も受け入れられない、ただの不平家として一生過ごすことになりかねません。
個性を育てるのも異質性を受け止める能力も、その人の受容力と好奇心の度合に応じているように思います。
2013年4月29日
2013年1月14日月曜日
仕事の価値観
突然ですが、
「仕事が楽しい」とはどういう状態のことをいうのでしょうか?
「楽しい仕事」とはどんな仕事なのでしょうか?
別に言葉遊びをしているわけではありません(笑)
どんな仕事や職業にしろ、人間の人生において、時間的にも心身的にも一番のウェイトを占めることになる「仕事」、または「労働」。
「仕事」や「労働」をどうとらえるか、それにどう取り組むか又は向き合うかというのは、人生においてとても大きなことだと思います。
ある人にとっては、仕事はあくまで家計のためや金儲けの手段としか捉えられなかったり、また、生活手段ではあるが仕事選び(どんな仕事をするか)も重要という人もいるでしょう。
一方で、仕事は自己実現の手段であり、仕事・労働に自己投影することこそが重要であって、金銭的見返り(報酬)は単に結果として得られるものでしかなく、金銭的報酬自体は重要ではない、という人もいると思います。
仕事の捉え方自体、人それぞれなわけですから、「仕事が楽しい」とか「楽しい仕事」について考えること自体が意味のないことと言われてしまいそうです。
楽しいかどうかを考える以前の問題として、仕事の意義や目的を二元論的で論じることなどできないことをまず踏まえることが先かもしれません。
ただ、人によって仕事の捉え方が様々であるからこそ、ある人にとっての仕事の価値観、つまりその人の人生における仕事の位置づけや思いが、一緒に働く組織における同僚、仲間と食い違っていればいるほど、その人は辛い仕事生活を強いられることになるのではないでしょうか。
私にとっては、仕事とは自分を成長させてくれる糧であり、かつ国家や地域など社会という人間の集まりの中で生きていくために基本的に誰もが果たすべき任務、家計という観点からの生きていくために必要な任務でもあります。
どの認識も不可欠だと思いますが、一番重きを置いているのは、「自分を成長させてくれる糧」です。私にとっての成長とは、これまで試行錯誤しながら生きてきた中で築かれてきた人生観、人生の信条・価値観に沿った人生を歩むことに少しでも近づくことだと考えています。
そのような価値観を抱くようになったこと自体がこれまでの成長だと思っていますが、今は誠実に信じることができる価値観も、また変わってくることがあるかもしれませんので、その意味では、その価値観に沿った人生を歩むことにチャレンジしつつ、軌道修正することも必要です。
自分が望む生き方を志す、そのためにあるのが仕事であり、勉強であり、家庭・家族であり、人間関係であるととらえています。
そして、この成長というものに終わりはないと思います。
人生は一生旅路だとの思いが自分にはあり、人間として一生涯、この世のあらゆることに好奇心を持ち続け、学び、気づきを得続けたいと望んでいます。
その限りにおいて、仕事はそんな自分の人生を歩むうえで最も大きな比重を占めています。それは、人間としての生に「労働」というものが本質的に潜んでいるからだと思います。
「働かざるもの食うべからず」
こんな言葉があるくらい、人は働いてこそ社会の中で人として認められるという常識があります。
子供の頃に勉強するのは、大人になって働くための準備期間であり、単に中身というだけでなく社会に出て働いていくための社会生活性、習慣やルールを学んでいくための期間でもあります。ただ、この言葉が働きたくても働けない人たちに対する誤った偏見として使われることがあるのは残念でなりませんが。
人が共に働くことで社会が築かれる、共同生活が営まれるのですから、労働は人間にとってそもそも本質的な行動、欠かすことのできないものなのだと思います。
これはそもそもの前提論のようなものですが、ここを確認してこそ、初めて労働の中身や意義を議論することができるのではないかと思い、敢えて原点に戻ってみた次第です。
私にとって、初めての労働を遡れば、中学生のときにした近所の植木屋さんでのアルバイトでした。まだ中学生でアルバイトをするのは珍しかったと思いますが、たまたまある年の夏休みに、我が家の庭木管理をしてくれている植木屋さんから声がかかり、たしか1週間程度だったと思いますが、アルバイトとして働かせてもらいました。
そのときは、仕事をしているという感覚はなく、いわばお手伝いのようなもので、お小遣い稼ぎという感じだったと思います。それでも、そこで初めて手にした労働の代償としてのお金は、とても嬉しかった記憶があります。お客さん宅で庭木管理をしていると、お昼に出してくれるお茶だったり、おやつをいただいたりすると、とても嬉しかったし、心地よい気持ちが強く残ったのを覚えています。
その後、学生時代にはアルバイトとしての労働に勤しみましたが、やはりあくまでお小遣い稼ぎの手段としての位置づけであり、労働そのものに対する思いや感受性はそれほどなかったと思います。それこそ、「楽しい」などという感覚は皆無でした。
そんな自分ですが、浪人生時代に、当時の予備校の国語(現代文)の先生のすすめで読んだ黒井千次さんの「働くということ」(講談社現代新書)。この本が、私に「労働」について初めて洞察することになる機会を与えてくれました。
その後、大学を卒業して社会人として仕事が中心の生活になった後、苦悩する度に原点回帰のためにこの本を読むようになるとは思いもしませんでした。いま現在でも読み返すことがありますし、私の人生と労働に示唆を与えてくれた本の一つです。
黒井さんは、「人生とは働くとは何かを問い続けること」と同書で述べており、よって「労働」が病んでいるときは私生活も病んでいる、といっています。労働が病んでいれば、その人の人生も病んでいる、といっても言い過ぎでないと思います。
いま、その「労働」が病んでいると至るところで言われています。
過労、ストレス、機嫌の悪い職場、いじめ/嫌がらせ、リストラ、就職難。
労働に関するネガティブで悲観的な言葉が巷にあふれているようです。
そして、私自身、それに近い場に実際に身を置いていた経験もありますし、一方で、「ワクワク感」や「充実感」を感じられるポジティブな生の状態での労働の経験もありますので、その落差に翻弄されてきたところもあります。
ポジティブな状態でワクワクしているといっても、普段の遊びの意味での「楽しさ」とは次元が異なります。状況としては、困難な壁にぶつかったり、それこそピンチに陥るようなことがあっても、一緒に働くメンバーが目標を共有できているので、それに立ち向かおうとする気勢がもて、それこそワクワクするようないい緊張状態です。かつ、それを実際に乗り越えることによって達成感、充実感を感じられるという心理状態なのだと思います。
そういう心理状態のときは、たくさん働いても疲れは身体的な疲れでしかないので、適度な休息をとることですぐに回復しますし、心地よい疲れにすら感じられるほどです。
ところが、組織の方向性がわからずに自分がしている仕事の意義が感じられなかったり、一緒に働いている仲間とコミュニケーションがとれない、理不尽なやり方を押しつけられながら働いていると、それはもうストレスとなってネガティブな気が自分の中に充満し、身体的な疲れ以上に精神的・心理的な疲れが大きく、暗雲たる気持ちとともに身体が重くなり、いずれは仕事自体が嫌いになってしまいます。
私はいまこう思います。
例えば、いま毎日会社へいってしている仕事。その仕事自体が嫌いということではなく、その職場・組織の在り方や将来へ向けた目標、ビジョン、また同じチームのリーダーや仲間に「共感」できていないから、仕事が好きになれなかったり、ネガティブ思考が生じてしまうのではないでしょうか。
つまり、私の場合は、基本的に自分がどんな仕事をするか(職務を担うか)ではなく、「誰」とするか、及び、その組織が何を目指しているのか、社会の中でどう在ろうとしているのかが重要であり、そして、そこに向けてリーダーを筆頭に組織全体で努力していけるような「場」を求めているのだろうと思います。
ただ、幸か不幸か、これまでの自分には、キャリアの最初に経験した新規事業立上げに従事した約4年間以来、そのような「場」にはなかなかありつけませんでした。
それは、自分があまりにそれを「求める」ばかりでいたせいか、いつの間にか「見つける」ことに固執しがちになってしまい、結果として失敗し、落胆し、また求め、ということを繰り返していた時期があったと思います。
そんな試行錯誤を繰り返してきた中で、失敗から学びつつ、自分が追い求めたいと思う人生の価値観が明示的になってきたのが過去5年ほどの仕事生活。
一昨年には大きな挫折も経験し、心身ともに一度は病み沈みましたが、「自分はこれだけのもの」という謙虚な思いに立ち返ることができました。
そして、身の丈を踏まえた上で、自分の意思と共感しあえる人と仕事がしたいという純粋な思い、仕事に対する好奇心、仕事を通じた新しい気づき・学びへの思いが今まで以上に増し、今に至っているところです。
いま言えることは、「場」を求めれば求めるほど、そういう「場」は向こうからはやってきてくれないということ。つまり、「場」を求めるのではなく、自らがそういう「場」と「チーム」創りに貢献すること、そしてその「場」で同志と一緒に成長していく、それこそが自分が進むべき道なのではないかと思うようになりました。
折しも、この変化の恐ろしく早い現代において、一つの成功が変化に翻弄されて長続きせず、また国境を越えた競争環境が実現されたことで、金とヒトの流動化が激しくなり、それこそ以前のように一つの仕事、組織、社会に属していることで安定できる時代ではなくなりました。
それを考慮すると、以前の一般常識的価値観からすれば恐怖的な状況にみえる「いま」も、別の面からみれば大きなチャンス・機会でもあります。読んで字のごとく、「危機」はもピンチにもチャンスにもなるわけですからね。
ある(一つの)組織に属して仕事をするというスタイルは、「労働」の選択肢の一つに過ぎなくなるだろうと私は思います。
複数の組織に属しながら仕事をするスタイルも常識的に許容されるようになるかもしれません。
例えば、(組織への表面的な関わり形態は様々に考えられるとして)専門性を生かしてプロジェクト的に複数の仕事をかけもったりするなど。いろいろな労働の形態が出てきてもいいと思いますし、もちろん、これまでのように一つの組織に専従して仕事をしていくスタイルだってあり続けるでしょうし、ベストな結果を出す、目指す目的に応じた組織・労働形態があっていいのではないかと思います。
求められる仕事の中身や事業内容によって、組織への所属形態も働く人のスタイルも多種多様になっていくだろうという思いは、これまでの20年近くの仕事経験、とりわけ大企業から中小企業までの組織・仕事経験があり、また、独立して個人事業を営んでいる友人や専門職で生き歩いている友人・知人との付き合いの多い私のいまの実感です。
実際に必要性に応じて多様性が生じているのですから、そういう多様性を受け入れる社会構造に変わっていくだろうとも思います。
そういう流れの中で、仕事において何が一番大事なことか?
それは、自分が「何をするか?」以上に、「目指すべき方向や社会的存在意義」に関連して自らが共感できる組織・事業、、またそれを「誰と一緒にやるか?」ということではないでしょうか。
私はいま、メインの仕事をする一方で、(内発的モチベーションにより)自分と同じく股関節に障害をもつ方々の痛みの除去に少しでも貢献することができればとの思いで、ある事業の支援も行っています。
どちらも同じくらい大事なことです。
ここで最初の自問です。
「仕事が楽しい」とはどういう状態のことをいうのでしょうか?
「楽しい仕事」とはどんな仕事なのでしょうか?
以前であればこう答えていたと思います。
日々の生活にワクワクできる、毎日朝起きるとパッ!とポジティブな明るさに包まれる、そんな思いで生きれるとき、楽しい仕事をしているのだと思います。難しい問題・高い壁にぶちあたったとき、「よーし、やってやるぞ!」と自然に思えるような状態。
これに付け加えて、いまはこうも思います。
同じ志をもつ仲間と一緒に時を過ごせること。日々のどんな出来事にも感謝できる心がベースにあり、かつ未知なることへの好奇心を失わずに喜びをもって毎日を生きることができること。
そういう毎日を過ごせることが、「仕事が楽しい」という生活と同義なのではないかと思うようになりました。
「仕事が病んでいる」
そういう人や職場が本当にメジャーになっているのであれば、それは本当に残念でなりません。
仕事で病んだ心身を他のことで完全に癒すことはできないと思います。
「仕事で健康になる!」、自分がそういう機会を提供できる立場に立ちたいというのが目標です。
一人でも多くの人が、自分らしい労働・仕事を見つけられることを願ってやまないですし、それには人によって差があるでしょうから、時間的な早い遅いがあるのは当然でしょう。
どんなに時間がかかっても、「自分らしく生きたい」という思いを不断に持ち続け、問い続けていくことによってのみ、道が開けるのだと私は信じています。
2013年1月14日
2013年1月4日金曜日
失敗と謙虚さ
「人の営みを暖かく見る見方だけが新しいものを生み、人間の文化を豊かにする」
これは、“失敗学”の第一人者で有名な畑村洋太郎氏の著書『失敗学のすすめ』の中で同氏の持論として記された言葉です。
「失敗」 「ミス」
その大小にかかわらず、どうしても否定的にとらえられてしまう出来事ですが、ここ数年、「失敗からいかに学ぶか」が自分にとっての大きな課題でもありましたので、新年を迎えてどうしても最初に触れておきたいと思い、今回のテーマとしてみました。
「失敗は成功の母」
この諺を知っていて同意する人は多くても、また「失敗やミスをしない人間なんていない」と表面的にはわかってはいるつもりでも、自分であれ他人であれ、現実の失敗という事象に対して、それを肯定的に受け入れて、次の営みに向けた糧として活かすことは、実はかなり難しいことだと思います。
実際に、私自身、これまで他人の失敗を許せなかったり、逆に自分の失敗について自責の念が強くなり過ぎて落ち込んで自信をなくすという経験を何度もしてきました。
自責思考は悪いことではなく、ただ、それを次への糧として活かせればいいのですが、「喉元すぎれば熱さを忘れる」ではありませんが、いつの間にか自分の失敗は忘れて、再び失敗以前の状態に戻ってしまいがちです。
私の人生も40歳を過ぎ、ここ数年でようやく“体感”として文字通り身体で実感できるようになってきたことがあります。
それは、
「失敗を糧にできるかどうかはその人の謙虚さによる」
ということです。
失敗をうまく人生の糧として成長してきた人にとっては、「そんなの当たり前じゃないか」と笑われてしまうでしょう。また、若い頃から人望厚く、優れた人間力をベースにリーダーシップを発揮している人にとっては、自分に対しても他人に対しても謙虚であることは自然なことであり、きっと意識をしなくてもそういう心の在り様に至っているのではないでしょうか。
でも、残念ながら、私はそういう心の在り様に至ることがなかなかできませんでした。
同じような失敗を幾度となく繰り返しながら、都度、振り返り(反省)をして次へ活かそうとするものの、ある時は間違った方向へ自分を導いてしまったり、またある時は方向は正しいようでも実践が伴わないうちに元の状態に戻ってしまい、結局再び失敗してしまった、ということがありました。
その一番の例が「転職」でした。
いま思うと、結局は、失敗の原因を自分のエゴ、都合のいいように解釈しようとしてしまっていたこと、そして、客観的に失敗の現実を直視・分析しつつ、主観的に活かすことができなかったことが主因だと思います。
自己理解、自己受容の未熟さが故であったともいえますが、要は謙虚に自分を視れなかったことが一番の原因であったと思います。
謙虚であるとは、本当なら見たくもない、忘れてしまいたい失敗を真正面から見れる姿勢であり、他人から批判されたり反論されたり、また、自分が欠点とおもっているところを指摘された際にも、それに冷静に耳を傾けられる姿勢であり、いわばそういう心の在り様なのではないかと私は思います。
相手が家族などの身内だったり、仲の良い友人であったり、関係性が深い人から言われたことの方が受け入れ難いという人もいれば、その逆に身近で感情的になれる相手からの苦言・提言は素直に聴き入れられるが、外での関係性、例えば、組織の序列的な観点からみて自分と同等、又は下位にいる人からの指摘は受け入れ難いという人もいると思います。
要は、「身内」であろうと「(身)外」であろうと、自分と相手の立場的な関係性、例えば、年齢や序列、上下関係、そういったものが相手の話を聴く際に一種のフィルターのようになって、それが自分に都合のよい「歪み」を生じさせてしまい、結果、謙虚さの欠如につながってしまっているのかもしれません。
そして、これこそが「失敗」という事象の捉え方に対するポイントであるように思います。
更には、その人自身の過去の体験(とりわけ成功体験)やこうあるべきという強すぎる思いがフィルターとなり、歪んだモノの視方を生じさせてしまうこともあります。
これらはまさに私自身の体験からきているものですが、私の場合は、自分のことを一番わかってくれている親や妻からの苦言や助言に対し、それを素直に聴けるかどうかが自分が謙虚な心の状態になっているかどうかを測る物差しになっています。
「謙虚さ」の視点をさらに突き詰めてみると、失敗を糧にできるかどうかは、自己・他者との関係性にかかわらず、プライドや過去の成功体験への固執から自分をいかに解放できるかどうかにかかっているように思います。
私は、特にここ数年は自分にとっての人生の価値観通りに生きようとする信念と(悪い意味での)頑固さとが混同してしまうことが多く、ひどいときには(その価値観に対する)誠実さと謙虚さのバランスを欠いてしまうことがありました。
『一切の気取りと背伸びと山気を捨てて、自分はこれだけの者という気持ちでやろう』
(作家・尾崎一雄)
自分が失敗したときに現実を直視できるか、また人から耳の痛い話を言われたときにそれを聴くことができるか。それはこの言葉のような心の在り様になれるかどうかだと思います。
言葉にすると簡単なように思えますが、私のような凡人にとっては、現実の生活の中で痛く辛い思いを何度も経験して(身体に染み込んで)、ようやく、自然な感覚としてそう思えるようになりつつあるというところです。
冒頭の畑中氏の言葉に沿えば、自分の失敗に対しても他人の失敗に対しても同じようにに謙虚になれるかどうか。
自分がそうでないからこそ、「そう在りたい」と願う。
そして、その根底となる「自己受容」と「他者受容」について不断に問い続けていきたい。
2013年1月4日
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